Avalon 灰色の貴婦人 押井守 [#改ページ] 目次 乙女の国——ティルナバン 灰色の貴婦人——グレイレディ 古い円卓——オールドテーブル プライデイ・アンヌウフン 解説   今野敏 [#改ページ] 【AVALON】——アヴァロン  広義にはシチュエーションとしての戦闘をふくむ体感ゲームを総称して【アヴァロン】と称する。  一九八〇年代に米陸軍が開発したコンバットシミュレーターをその原型とし、二〇世紀初頭に飛躍的な発展を遂げた大脳生理学の成果を導入することで、所謂【ブレインストームタイプ】のシステムとしての実現をみた。  プレイヤーは視覚や聴覚を経由せず、大脳皮質への低周波による直接励起によってゲーム内の時空間を体感し、プログラムされたシナリオの蓋然性の内部でその戦技を競う。戦闘は任意に選択された状況下において、個人またはその所属する集団単位で設定され、【フラグ】と呼ばれる特定の標的、またはプログラムの支配下にある標的の全てを倒すか、あるいはプレイヤー自身が【死ぬ】ことにより終了する。  ゲーム内の現実はプレイヤーによって擬似的に体感された架空の世界に過ぎない。しかし、その戦闘行為が覚醒後の被験者におよぼす影響、とりわけその【死】の体験の心理的・生理的影響の危険性は早くから指摘され、多くの地域で非合法化されながら、しかし今世紀中葉の不安定な政治経済状況下に熱狂的ブームを巻き起こし、若者たちの間に【パーティー】と称する非合法集団を頂点とした無数のゲームフリークスを生みだした。 [#改ページ] 乙女の国——ティルナバン   1  この世界は常に強烈な既視感に包まれている、と俺は思う。  その既視感の原因を、巧妙に計算されてはいるが、実はこの世界が可能な限り共通のパーツやテクスチャによって構成されているからだと、したり顔で説明する者もいる。  そうなのかもしれないし、そうではないのかもしれない。  だが俺にはその原因が、この世界の空にあるように思えてならない。  ドーム状の天蓋に投影された空は常に黄昏の微妙な明るさに満ちていて、まるで見上げる者の心を映す巨大な鏡であるかのようにその表情を絶えず変化させつづけている。確かに【アヴァロン】と名づけられたこの世界に相応しい空があるとすれば、それは永遠の黄昏以外にないのかもしれないが——俺にはこの空が遠い記憶の何かに繋がっているように思えてならない。  その記憶がこの世界の外に属するものなのかどうか、それは俺にも判らなかった。  俺は伏射《プローン》のポジションのまま、駅舎の庇の上から首を上げて眼前に広がる市街を眺め渡した。  戦場《フィールド》クラスA——【C《シティ》28】。  ここは前世紀末の中欧の小都市を模して設定された、【アヴァロン】の典型ともいうべき戦場だった。  都市の守護神の彫像や古風な装飾を無惨な弾痕で抉られた石組みの駅舎。路面電車の湾曲した軌道が描かれた石畳の広場に放置された戦車《T72》。凝った様式のファサードが両脇に聳え立つ通りの交差点に吊られた照明灯……こういった意匠に満ち、それでいて画一的な街がモデルとして選ばれたのも、データ処理の高速化の追求の現れだとする説には確かに肯けるものがあった。が、なにより【永遠の戦場】という神話的イメージを内戦の記憶の埋め込まれた都市に求めた設計者たちの独特の美意識こそが、プレイヤーたちを魅了しつづけ、彼らをこの世界に踏み留まらせる大きな要因となったことは間違いない。  アクセスからすでに十数分が経過していた。  耳に挟んだインカムは沈黙を守りつづけ、俺は駅舎内のセーブポイントへの撤退ルートを確保するという今回の任務に早くも飽きはじめていた……。  どこかで警報《アラーム》が鳴っていた。  遭遇《エンカウント》につきものの銃声が聞こえなかったところからすると、どこかの間抜けなパーティーのドジな【盗賊《シーフ》】が怪しげなボーナスコンテナの解錠に失敗したのかもしれない。クラスBあたりならともかく、ハイレベルのパーティーがアクセスするこのクラスの戦場では滅多に起こらない状況だった。  いずれにせよ迷惑な話だ——と思う間もなく、お馴染みの突撃銃《カラシニコフ》の乱射音が響き渡り、前方のアーケードの入口から逃げ惑う【住人《ニュートラル》たち】、それにつづいて銃を乱射しながら後退する六人のプレイヤー、さらにはケチな拳銃《トカレフ》を振りかざしてそれを追う【掠奪者《ルーター》】の群れが溢れ出して、俺の気分を萎えさせた。  掠奪者《ルーター》の数は例によって吐き気を催すほどだったが、それにもまして俺を失望させたのが後退するプレイヤーたちの無惨な戦い方だった。  一般に撤退戦は部隊の規模が大きいほど困難を極め、攻勢に出た敵の追撃をかわしながら戦域を離脱するためには攻勢時におけるそれを遥かに上回る戦力の損耗を覚悟しなければならず、部隊間の連携を誤れば戦線の崩壊から潰走を招くこともある。これが予備戦力など端から存在しない威力偵察中の小部隊の場合——戦場におけるパーティーの行動が限りなくそれに近いわけだが——一度撤退に移ったが最後、隊員個々の錬度が全てを決する。  このパーティーでややマシと思えるのは短機関銃《PPsh》を効果的に点射する指揮者《アルファ》と、これを支援するように分隊支援火器《RPD》を鳴らす【戦士《ファイター》】の二人だけで、残りは全てカスだった。  こういった局面では追撃する敵を抑制するための火力の連携がもっとも重要なのだが、殿を務めるべき戦士《ファイター》たちが恐怖に駆られて無統制な乱射を繰り返し、弾倉《マガジン》交換の間隙を衝かれて敵の無謀な接近を許すという最悪の展開となっていた。パーティープレイなどという結構なシロモノは薬にしたくともカケラもなく、一人倒れ二人脱落し戦力を逐次消耗していって全滅に到ることになる。  この程度のパーティーでよくクラスAにアクセスする気になったもんだ——と、高みの見物を決め込んでぼんやり眺めていた俺は、突然インカムに飛び込んできた叱声に我に返った。 【マークス……掩護はどうした!】  その特徴的に嗄れた女の声は、間違いなく俺が契約したパーティーの主宰者のものだった。  ハイレベルのプレイヤーが常用するインカムは、パーティーごとに別チャンネルを振られているから混信もあり得ない。  ということはつまり、目の前で悲惨な遁走劇を演じている間抜けなパーティーこそが俺の雇主《クライアント》であり、それは今回の作戦《ミッション》が確実に不首尾に終わることを意味していた。 【マークス!】  インカムの声が悲鳴に近くなり、俺は小さく舌打ちして愛用のFALの銃床を肩に引きつけた。トリガーを絞ると目の前に火球が出現し、30口径特有の凄まじい反動《リコイル》が全身を叩く。さらに正確なテンポを刻んで追撃する敵の群れに弾を送り込むと、遁走するプレイヤーたちの背後で数体の掠奪者《ルーター》が煌めくポリゴンの破片を撒き散らして弾け飛んだ。  小口径突撃銃の連射音を圧して広場に響き渡る轟音に勇気づけられたのか、パーティーの逃げ足に拍車がかかる。  顔を引きつらせてメンバーを叱咤する指揮者《アルファ》の顔が目視できる距離に迫るまでさらに数弾を送り込み、俺はFALを頭上に掲げて庇から八メートル下の地上に飛び降りた。  頑丈な戦闘靴《ブーツ》が石畳を叩く。  これが現実なら良くても捻挫、悪くすれば骨折は免れないが、ハイレベルの戦士《ファイター》のパラメータはこの程度の荒業を楽にこなさせる。  俺は五〇メートルほど前方に擱座《かくざ》している戦車に走り寄りながら怒声を飛ばした。 「RPDは俺と踏ん張る。残りはセーブポイントまで突っ走れ!」  戦車を掩体《えんたい》にして俺とRPDが時間を稼ぎ、敵の勢いが衰えたところで尻に帆かけて逃走する——何の芸もないが、この状況で他に選択肢などあろう筈もなかった。  唯一根性のありそうなRPDが振り向きざまに膝をついて盛大な掃射を始め、その傍らを残りの五人が装備を鳴らして走り抜けていった。  RPDのM43弾薬はFALの308NATOの弱装弾のようなものだが対人用としては充分なタマであり、何より毎分700発前後の発射速度が頼りになるし、遮蔽物のない近接戦闘ではまさに脅威そのものだ。戦車の後端にとりついた俺のFALの速射がこれに加勢すると、さすがに数と無謀さが取り柄の掠奪者《ルーター》の追撃も行き足が落ち始めた。  が、それも弾が尽きるまでの話だ。  RPDの100連ドラムマガジンの予備が尽き、俺が腰のパウチの20連を撃ち尽くせばあとはサイドアームの拳銃だけが頼りだが、短射程の勝負に持ち込まれてしまえば腐れトカレフといえど何せ数が数だからマグレだろうがなんだろうが当たるときは当たる。  俺は308の貫通力と弾丸威力を生かすべく、なるべく密集した敵に弾を撃ち込みつづけた。さすがに弾丸重量150gr《グレイン》の威力は凄まじい。射線上に重なった掠奪者がまとめて弾け、ポリゴンと化して砕け散る様は壮観と言えば壮観だがいくらでも湧いてくる掠奪者ごときに貴重な弾薬を消費する虐殺行為など誰も賞賛しないし、稼げる経験値《ポイント》もたかが知れている。  萎えかける気力を奮い立たせ、最後のマガジンを装着して背後を振り返った俺は逃走した筈の五人が戦車に張り付いている様を見て仰天した。 「どうした!」  咄嗟にそう叫ぶのが精一杯なほど俺の頭は混乱していた。 「あの中も連中で一杯よ!」  指揮者《アルファ》の女が叫び返しながら顎で示す方を見ると、これまたうんざりするような数の掠奪者《ルーター》が数箇所ある出入口から吐き出されているところだった。  全周防御《ラウンドパリイ》、と命令する女の声を聞きながら、俺はその場に座り込みたくなるような絶望感に襲われていた。  敵の数の多さに、ではない。このパーティーの救い難いほどの愚劣さと、そんな連中に雇われた俺自身の馬鹿さ加減にだ。  包囲された際の全周防御は防御する側の全員をカバーするだけの掩体、もしくは広い壕が存在することが前提だ。総員が外周に張り付いて射角を分担し、外周を乗り越えようとする敵に対してはその射角を内側へ振り向けることで対応する。それとて救援が到着するまでの持久戦でしかなく、全滅と引き換える覚悟が必要とされる。遮蔽物のない広場に置かれた戦車が防御陣形の掩体として何の意味も持たないことぐらいは子供でも判る。包囲された状況化で鋼鉄の塊を盾にとるということは、そのまま鋼鉄の塊を背負うことと何ら変わらない。  唯一の生還の可能性があったとすれば、あのまま駅舎に突入して血路を開くことだけだ。いかに数に優るとはいえ、所詮は戦術も統制もない掠奪者《ルーター》に過ぎない。圧倒的な火器の優位を利して戦えばおそらく半分はセーブポイントに辿り着けた筈だ。  だが貴重な弾薬を消費して稼いだ時間はすでに決定的に失われていた。  包囲の輪を閉じた掠奪者《ルーター》たちが、勝利を確信したナポレオンの歩兵部隊のように足並みを揃えて間合いを詰め始める。  全員が手持ちの弾薬を消耗して掠奪者《ルーター》に虐殺されるという恥辱に甘んじるか、それともそれを待たずに現われるであろう【正規歩兵《トルーパー》】の部隊に一蹴されるか——もちろん、俺はそのどちらも御免だったし、こんな連中と心中する気もなかった。 「オレのAKSはもう残弾が怪しい……」  顔面を蒼白にした男が指揮者《アルファ》に詰め寄っていた。手にしているAKSがバレルを短く切り詰めたタイプのAKS74Uであるのを見ると、どうやらこの男が警報を鳴らした張本人の盗賊《シーフ》であるらしい。AKS74Uは携行火器に厳しい重量制限のある盗賊《シーフ》の標準装備ともいうべき銃で、拳銃弾を用いる短機関銃に比べて使用弾薬が強力であることだけでなく、 パーティー内での弾薬を共通化できるメリットがあるところから特に従来のAKMの改修型ともいうべきAK74系統の小口径突撃銃を装備するパーティーの盗賊《シーフ》がこぞって装備する傾向にある。 「な、このままじゃ全滅だ……撤退《リセット》しよう」  さすがに指揮者《アルファ》の顔色が変わった。 【撤退《リセット》】というのは、言ってみれば戦場《フィールド》における最終選択であり、【アヴァロン】の最大の特徴ともいうべき緊急脱出コマンドのことだ。撤退《リセット》を宣言したプレイヤーはいかなる状況下であれ、即座に【アヴァロン】のシステムから解き放たれ、同時にそのパラメータは最新のセーブデータに戻される。プレイヤー単独のレベルで言えばそれは戦場《フィールド》で殺された場合の【死亡《デッド》】となんら変わらないが、パーティー内でのそれは様相を大きく異にする。それがどれほど重要なことかは窮地に追い込まれたパーティーの前衛が撤退した場合を想定すれば明らかだ。パーティープレイを原則としながら、しかし撤退の判断それ自体は個人に委ねられる。この独特のシステム故に多くのパーティーが全滅の憂き目に遭い、さらに全滅よりも救い難いメンバー間の相互不信という事態を招いて解散に追い込まれることにもなる。それを開発者たちの純粋な悪意と考えることも、またその逆に開発者たちがプレイヤーに課した試練だと捉えることもできるが、少なくともクラスAにアクセスするようなプレイヤーたちは撤退《リセット》を最大の恥辱と考えているし、死の苦痛を恐れて戦場《フィールド》から逃亡したプレイヤーを侮蔑して憚らない。彼らにとって個人データに記された死亡《デッド》回数は単なるパラメータに過ぎないが、撤退《リセット》は決して見過ごすことのできない臆病者の刻印なのだ。  たとえ死に招かれても繰り返し戦場に復活する英雄たち。  それこそが、英雄の魂の眠る島アヴァロンの名に託した開発者の思いであり、それを信じることによってのみこの仮想の戦場はプレイヤーたちにとってゲーム以上の何かであり得た。  だがしかし——今この窮地にあって指揮者としての決断を迫られている彼女にとって、問題は別の意味で深刻だった。パーティーを主宰する指揮者にとって、身内から逃亡者を出すことは指揮能力と統率力の欠如を証明するもっとも手っ取り早い証明になるからだ。  彼女がそうであるような戦闘力に見劣りのする【司教《ビショップ》】は、パーティーを主宰することでしか戦場《フィールド》に立てないが、一度でも無能の烙印を押された指揮者《アルファ》が優秀なメンバーを集めることは難しい。ポイントを稼いでレベルを積み上げ、単独でのプレイすら可能だと言われる【高位聖職者《ハイビショップ》】を目指すどころか、【アヴァロン】で喰っていくことすら覚束なくなる。  生活がかかっているのだ。  彼女は【使えない盗賊《シーフ》】に答えるかわりに、短機関銃《PPsh》の一連射で数体の掠奪者《ルーター》を吹き飛ばした。目が完全に吊り上がっていた。できることなら誰よりもまず、目の前の盗賊《シーフ》を射殺したかったに違いない。 「クラスAまで来て恥をかきたいなら勝手に逃げなさい!」  彼女の凄まじい気迫に押されたのか、さすがの【使えない盗賊《シーフ》】も口を閉ざしたが、赤く充血した目に明らかな不満を浮かべている。事の成り行きを眺めていた【員数だけの戦士《ファイター》たち】も御同様といった按配だった。  俺に言わせればプレイヤーには二通りの人間しかいない。  逃げる奴と逃げない奴だ。  そしてこの連中はといえば、間違いなく前者だった。  俺はこの場においては宝石のように貴重な「逃げない奴」であるRPDに顔を向け、つづいて戦車の砲塔を見上げた。  RPDが口を一直線に引き結んだまま小さく頷き、俺はFALのスリングに体を通して転輪に足をかけた。 「マークス……!」  指揮者《アルファ》が悲鳴のような声を漏らすのを聞き流しながらこの戦車《T72》特有の半球状の砲塔に這い上がり、そのまま車長用ハッチに滑り込んで車載機銃のハンドルを握った。  言っておくが、俺はこの手の英雄的行動って奴が大嫌いだ。体を張って仲間を助けるような自己犠牲的精神の持ち主なら、そもそも【傭兵《マークス》】なんぞになるわけがない。  がしかし、あの指揮者の女とはまた違った意味で俺にはこの窮地からカスどもを生還させなければならない理由があった。  背後でRPDが掩護の点射を始めた。  右グリップを手前に捻り、ハンドルを掴んだ体を回すと重い銃架がガイドレールの上を流れるように滑る。俯仰ハンドルを旋転させて一杯の俯角をかけ、左グリップのクラッチレバーのようなトリガーを絞った途端に世界が閃光と轟音に包まれた。  |Dsh—K《ダッシュ カ》。  本来は対空機銃として設計された機関銃だが、前世紀後半に各地で頻発した内戦では対車両戦闘での水平射撃でその威力を発揮した。  12・7ミリ50口径、700gr《グレイン》の弾丸重量は二トン近い初活力《マズルエネルギー》を発生させる。俺のFALが使用する308の実に五倍以上のパワーであり、毎分500発前後の発射速度を考え合わせればその火力は小銃歩兵一個小隊のそれを凌駕する。しかもそれだけの威力を秘めながら発射の反動は頑丈な銃架を伝って三八トンの不動の銃座に吸収され、FALを撃ち慣れた俺ならずとも戦士階級《ファイタークラス》を持つ者なら誰でも操作可能だ。  巨大な火球《マズルフラッシュ》が明滅する視界の中で掠奪者《ルーター》の壁が死亡の蒼白い閃光を放ちながら波のように崩れ落ちていく。その中にときおり黄色い光が瞬くのは、おそらく駅舎内に避難して巻き添えを喰らった住人《ニュートラル》たちだろう。 「住人殺し《ニュートラルキル》」は誉められたものではないし減点対象にもなるが、俺は連射の手を緩めなかった。  戦場の各所に、いわばボーナスのように放置された装甲車両の重火器は特に装備の貧弱なパーティーにとって大きな魅力であり、かなり早い時期からこれを取り入れた戦術の検討が進められていた。それでいて滅多にその使用が試みられない理由は至極単純なものだった。見上げるような車上で重火器を操作する者にはその轟音と衝撃波に耐える胆力とアドレナリンの沸騰以外に、膨大な幸運が必要とされるからだ。戦場の真っ只中で車上に身を晒すような馬鹿は狙撃兵ならずとも小銃を持つ者にとって格好の標的以外の何ものでもないし、敵は常に前方にいるとは限らない。  歩兵戦闘を基本とする【アヴァロン】の戦場において50口径の重火器はそれを手にするプレイヤーを無敵の英雄に変容させる魔法のアイテムだが、狂戦士《バーサーカー》の寿命は短いものと相場は決まっている。  今はRPDの制圧射撃だけが頼りだが、いずれその弾も尽きる。掠奪者《ルーター》の中には稀にSKSカービンのような旧式小銃を持つものもいる。  狙撃の恐怖に耐えながら、俺は前方の糞ッ垂れどもに掃射を加えつづけた。   2  覚醒の不快感に慣れることだけはできない。  それが最低最悪のゲームからの帰還であれば、なおさらだ。  真っ先に俺を襲ったのは、重苦しい空調の唸りであり、そして床に染みついた消毒薬の刺すような匂いだった。  ゆっくりとヘッドギアから頭を抜き、足の指先まで感覚の戻るのを待って目を開けた。  目の前のディスプレイに見慣れた老人の顔が浮かび上がる。 「無事に帰還できて何よりだ……カバル」  GM《ゲームマスター》と呼ばれるその老人がプログラムされた模擬人格であることは【アヴァロン】に関わる者なら誰でも知っていたが、その原型《モデル》については諸説があり、古株のプレイヤーたちはそれが開発者の一人であると信じていたし、その人物をアーサー王伝説の登場人物になぞらえて「漁人《いさなとり》の王」とか「不具の王」と呼ぶ者もいる。俺にとっての老人はと言えば俺を未だに【カバル】という登録名《ハンドル》で呼ぶ数少ない人間の一人であり、そのことを許す程度に敬意と親しみを感じさせる存在であるに過ぎない。いずれにせよ未だ解答の得られない問題のひとつだった。  もっとも【アヴァロン】に関する限り、事実と呼べるものが殆ど存在しないことも確かなのだが——。  冷え切ったタイル張りの床に裸足で降りたつと、いつものことながら足裏を伝ってくる床の冷たさに下着姿の自分の寒々とした肉体を意識しないわけにはいかない。戦場《フィールド》において半ば超人的ともいえる肉体を獲得したことの、これが代償だった。  壁に掛けた上着から煙草を取り出して火を点ける。【端末《ターミナル》】は禁煙だったが、もちろんそんな規則を守る者などいない。貪るように大きく吸い込むと安煙草のニコチンが体内に広がり、惨めな肉体に相応の無惨な自分が忘れていた記憶のように蘇ってくる。  俺は煙草を咥えたまま室内を見渡した。  監房程度のスペースに合成皮革張りのベッドと無影灯、正面の壁に埋め込まれたディスプレイ……他に調度と呼べるようなものは何もない。ダクトの這い回る壁や中央の溝に向けて傾斜のつけられた床がタイル張りなのは、時に必要になる清掃作業の便宜を図るためだった。  被験者《プレイヤー》の中には【アヴァロン】の与える刺激——恐怖や【死】に対して発汗以上の生理的な反応を示す者が少なくない。覚醒時の嘔吐や被験中の失禁程度ならともかく、さらに言語道断な生理現象に対処するために講じられた措置がこのタイル張りだった。天井に設置されたパイプから浴びせられる消毒液のシャワーは初期レベルのプレイヤーの殆どが体験する通過儀礼であり、この【洗礼】を恐れるプレイヤーの中には素っ裸でベッドに上がる者もいるらしい。考えるだにおぞましい光景だが、虚勢を張って着衣で臨んだ場合さらに凄惨な姿で部屋を出る可能性があるだけでなく、それ以前の問題として、不特定多数の生理現象を受け止めたベッドに着衣を触れさせたくないという当然の感覚から下着で上がることが最低限のマナーとなっていた。  煙草を壁に擦りつけて消し、俺はのろのろとズボンを履きながらディスプレイに表示されたデータを眺めた。 「少なくとも君はパーティーを最後までエスコートする任務を達成したよ、カバル」  GM《ゲームマスター》が常に変わらぬ落ち着いた声でそう語りかけたが、今の俺に必要な言葉が慰めであるわけがなかった。 「帰還5死亡2……死亡《デッド》の二人は、よりにもよって掠奪者《ルーター》になぶり殺しにされたんだぜ」 「あの状況では最小限の犠牲だ。全員の生還はいかに君といえども困難だった」 「困難だが不可能ではなかった……そういうことか」 「カバル、君は私を困らせて嬉しいのかね」  俺は思わず口を歪めて笑った。  実際この老人が人工知能《A・I》だとするなら、その設計者は間違いなく天才であり、そして冷笑家だったに違いない。 「こんな日もある……」 「生憎だが」と俺は上着の袖に腕を通しながら答えた。 「俺の作戦《ミッション》はまだ終わっちゃいないのさ」 【傭兵《マークス》】としての真価が問われるのは、むしろこれからだった。  俺は出口に向かいながらもう一度振り返って室内を眺めた。  荒涼と形容するしかない部屋だった。  様々な人間がそれぞれのやり方で現実に背を向け、欲望の赴くまま夢を貪りに訪れる ——その部屋が見るものに荒涼とした印象を与えるとするなら、それはこの部屋を訪れる人間たちの心象を映しているからなのかもしれない。 「次のアクセスを待っているよ、カバル」  いま世界中の夥しい数のカバルを前にして、同じ数のGM《ゲームマスター》が口にしているであろう台詞に答えながら俺は部屋を出た。 「ああ……必ず来るさ」  回線の空きを待つ男や女たちでロビーは混雑していた。  かつては「さまよえる仲間の卓《テーブル オブ ワンダリング コンパニオンズ》」などという洒落た名で呼ばれていた場所だ。今はどうかと言えば、オフでも徒党を組んで揃いのジャケットや刺青をキメて群れているような半端な奴らが屯する——要するにゴミ溜めに過ぎない。  そんな連中を掻き分け、先に端末《ターミナル》を出た筈のメンバーを探していると顔見知りの男が声を掛けてきた。俺と同じ傭兵《マークス》で、何度か組んだこともある男だった。戦場《フィールド》以外の場所で個人的な接触を持ちたがらない傭兵が多い中にあって珍しく人なつこい性格の持ち主で、その装備である30口径ライフルの名をとって「ガーランド」と呼ばれている髭面の大男だ。この稼業では登録名《ハンドル》など誰も聞かないが、装備はそのプレイヤーの人となりを正確に反映すると考えられていた。30口径などという、いまどき流行らない大口径を選ぶ偏屈な性格が妙に馬が合う理由なのかもしれない。 「よお308《サンマルハチ》、大活躍だったな」  308は俺の装備であるFALの308NATO弾に由来するが、本人も自分が使用するUSミリタリーカートに準えて30—06《サンマル—ゼロロク》と呼ばれることを好む。  勿論そんな名で呼ぶ奴は滅多にいない。 「とんだ貧乏クジさ……見てたのか」  俺はロビーの奥に目を遣りながら答えた。  これも【アヴァロン】独特のシステムの一部なのだが、ロビーでは常設されたホログラフに任意に選択された作戦《ミッション》がオンタイムで表示されることになっている。もちろん戦場《フィールド》の数は膨大だし作戦《ミッション》の大半は地味な索敵に終始するから、派手な見せ場が選ばれることが多い。プレイヤーもそのことは先刻承知だから戦闘に突入した途端に気合が入る。自らが思い描くキャラクターをどこまで忠実に演技《ロールプレイ》することができたかが賞賛と侮蔑を分かつことになる。あの指揮者《アルファ》の女が恥をかく、と表現したのはそのことだ。  戦闘がクライマックスを迎えたのか、大きな歓声があがり、たちこめた紫煙がホログラフの激しい明滅を映して妖しく輝いていた。 「大受けだったぜ。伝説の狂戦士《ランボー》もかくやってな」  ガーランドが大口を開け、独特の擦れた笑い声を洩らした。揶揄するような笑いではなかったが俺は心底げんなりして目を伏せた。  50口径でザコの群れを掃射するようなマッチョな近接戦闘は俺のポリシーに反する。そんな杜撰な戦士を演じるくらいなら、そもそも半自動のFALなど選ぶわけがなかった。 「いいじゃねえか。これで傭兵としての株も上がって仕事も増えるさ。それに……仮の仲間とはいえ、身内から撤退を出すのは嫌なもんだ」 「顧客は大事にするさ、仕事だからな」  この男なりに俺を慰めようとしているのだ、と気づいた俺は軽口を返して話に切りをつけることにした。今日の俺は他人の優しさに傷つくほどナーバスになっている。  トイレの入口で張り番をしているRPDを見つけ、軽く手を上げた。 「清算《オトシマエ》か」 「まあ、な」 「真っ先に誰かひとり選んで喰らわすんだ。話が早くなるぜ」 「俺、暴力が嫌いなんだ」 「俺もさ。だが話は早いほうが好きだろ」  愛すべき30—06に別れを告げた俺は、トイレに向かって歩きながら上着のポケットを探った。皺くちゃのハンカチを取り出して右手に巻きつける。  口を一直線に引き結んだRPDはトイレに入る俺を無言で見送った。  場末と名のつく店ならどこにでもあるような、いわゆる「世界の果ての便所」だ。  語るほどの場所ではない。  俺が入ると壁によりかかって煙草を吸っていた指揮者が体を起こし、整列していた【員数だけの戦士たち】が顔を上げた。三人のうちの二人は嘔吐したらしく、血の気の失せた顔色をしていた。 「警報を鳴らした馬鹿はどこだ」  俺の問いに答えるように個室から派手な帽子を被った【使えない盗賊《シーフ》】が現れた。水を流す派手な音がしなかったところからすると用便でなく、薬《カプセル》をキメていたのかもしれない。  覚醒剤の類は【アヴァロン】と脳の同調を乱すので、一人前《ハイレベル》のプレイヤーが最も忌み嫌うもののひとつだ。  左足を踏ん張り、全体重を載せるようにして振り出した右拳を若僧の顔面に叩き込む。  奇妙なステップを踏んで体を泳がせた【使えない盗賊】は【員数だけの戦士たち】を巻き添えにして水浸しの床に折り重なって倒れ込んだ。  パーティー名を刺繍した帽子が転がる。  撤退《リセット》したがる連中が【UNDEAD KOBOLD】とは笑わせる。  眉を顰めた指揮者が顔を逸らした。  この女も暴力が嫌いらしい。  暴力はやめてください、と戦士の一人が悲鳴のような声を出した。  爽快感などカケラもなかった。  本当の話、これだけ暴力の嫌いな人間たちが集まって暴力そのもののようなゲームに興じ、しかも暴力でしかケリがつかない事態に陥るというのも不思議な話だ。  がしかし、ここで俺が自己嫌悪に陥っていたのでは何のために嫌いな暴力を振るったのか判らなくなる。 「一度しか言わないからよく聞け。クラスAで恥をかきたくないならボーナスコンテナは無視するんだ。罠の解除に成功しても中に入ってるのはどうせ弾薬《アモ》だけだ。口径の合わない弾薬を抱えてポイントに換える余裕があるなら、自分の弾を制限一杯まで持て」  全体としては至極真っ当な話だが、弾薬だけというのは嘘とは言わないまでも真実ではない。相当に低い確率ではあるが稀にそれ以外のものが入っているケースもあるのだ。それが何かは……まあ、俺の口からは言えない。自信があるなら自分で確かめてもらいたい。 「それともうひとつ」  説教を始めると止まらなくなるのが俺の悪い癖だが、こればっかりは仕方ない。 「撤退《リセット》するくらいなら自分の頭に弾をブチ込め。負け犬は叩くのがここの流儀だ」 「そんな……たかがゲームじゃないスか」  戦士《ファイター》の一人が不満そうに呟いた。 「たかがゲーム、か」  俺は低い声でゆっくりとそう言ってから、そいつの顔を思い切り蹴り上げた。  鼻血を吹き上げて昏倒する。  今度は義務的な暴力ではない。俺はその男にはっきりとした憎悪を感じたからだ。 「たかがゲームなら逃げ出さずに戦ってみたらどうなんだ!」  腹立ち紛れにそう怒鳴りつけてはみたが、所詮こんな半端な連中を相手に何をどう言ってみたところで無駄であることは端から判っていた。  そう、所詮はゲームなのだ。 「経験値《ポイント》の五〇パーセントは俺が貰う。残りはあんたと表にいるRPDで好きに分けろ」 「いくらなんでもそんな……」  異議を唱えようとする女の肩を掴み、壁に押しつけて俺は一気に畳み込んだ。 「いいか、俺はあんたの言葉を信用したからIDのチェックもせずに召請に応じたんだ。こいつらのどこをどう押しゃそれなりなんて言葉が出てくるんだ」  女は無言で俺の目を見返していた。  戦場では気づかなかったが、こうして間近で見るとなかなか整った知性的な顔立ちをしていた。化粧気はないが、唇にだけ薄くルージュを刷いている。三〇は越えているだろうが、男たちと揃いのジャケットでロビーをうろついているような小便臭い娘たちにはない色香が感じられた。 「傭兵は信義と評判だけで喰ってるんだ。それが新人《ゲスト》の養成パーティー以下のド素人と組んだ挙句に、いい物笑いになるところだったんだ……どうしても嫌ならそれでもいいが、 もうあんたの召に応じようなんて傭兵《マークス》は一人もいなくなるぜ」  脅迫と紙一重、というより完全な脅迫だったが、俺の胸は痛まなかった。どうせ稼いだ経験値《ポイント》の殆どは俺の戦果だったし、騙しにかけたのは女が先だった。  廊下の片隅にある清算用端末《キャッシャー》で女が入力を始めていた。その傍らに顔を腫らし鼻血を垂らした二人を混じえた若僧四人が立ち、やや齢を食った俺とRPDがベンチを占拠して煙草を吸っていた。  事情を推察するだけの場数を踏んだ連中が苦笑を浮かべて通り過ぎる。 「なあ、何故あの女と組んでるんだ」  特に興味を持ったわけではない。  清算が終わるまでの暇潰しだったが、俺はこの手の男が嫌いではなかった。 「あんたの腕ならどこでもやっていける。こんなパーティーにいたって苦労するだけなのと違うか」  期待していたわけではなかったので、長い間の後に男が口を開いた時は少し驚いた。 「オレはあの女に誓ったんだ」  それだけ言ってまた黙り込む。  いったい何を誓ったのか、次の言葉を待っていた俺は男の答えがそれで終わりであるらしいのに気づいて呆れた。  恐ろしく言葉数の少ない男らしい。 「誓ったって……あの女、あんたの貴婦人《バード》ってわけでもないんだろ」 【貴婦人《バード》】というのは【アヴァロン】の流行の初期段階に一部のプレイヤー、それも男女の間に見られた風俗の一種で、中世の騎士と貴婦人たちの間に存在したとされる忠誠愛に準えた契約関係のことだ。その多くは戦士《ファイター》の男と司教《ビショップ》の女といった組み合わせだったが、稀にはその逆も存在した。いずれも一方が他方に忠誠を近い、獲得した経験値の一部を捧げてその証をたてるといった類の、まあ今から考えれば信じ難いほどの純愛関係《プラトニック》だったらしい。現在も【貴婦人】という言葉自体は残っているが自分の同棲相手のことを指すケースが殆どで、実質的には死語に等しい。 「オレはこの通りの不器用な男だからな。ハイレベルになるまで苦労して支えてくれたのが、あの女なんだ」 「だから今度は、あんたがあの女を支える……そういうことか」 「そういうことだ」 【アヴァロン】のプレイヤーはそのイメージするキャラクターに応じて設定された幾つかの階級《クラス》から一つを選択し、戦闘によって獲得した経験値を積み上げることでレベルアップしてゆくことになる。戦士《ファイター》は比較的成長の早い階級ではあるが、それでも経験値そのものを現金化する余裕のあるレベル——つまり曲がりなりにも【アヴァロン】で喰っていけるようなハイレベルの戦士《ファイター》が必要とする経験値はかなりなものであり、並外れた資質以外に、それなりの時間と資金を必要とする。【アヴァロン】のアクセス料金は決して安いものではないからだ。パーティーのバックアップなしには不可能であり、まただからこそ【アヴァロン】はパーティーの存在を前提として設計されている。  男の少ない言葉から推察するなら、おそらく人間関係の苦手なRPDはパーティープレイによる漸進的な成長でなく、資金力を背景として自力でレベルアップを重ねてきた珍しいタイプということになる。その資金のために女の重ねた「苦労」なるものの中味も、あの容貌からすればおおよその察しがつく。  とんだ愛妻ならぬ哀妻物語に出くわして俺は慌てた。 「それにしても……よりにもよって、なんであんなカスを集めたんだ」  俺は話題を変えるために矛先を転じることにした。 「前衛を他のパーティーに引き抜かれちまったのさ。よくある話だろ」  確かによくある話だった。  優秀なメンバーを抱えるパーティーの主宰者は絶えずこういった引き抜きやメンバーの独立に対処しなければならない。なかでも正面戦力であり、容易に補充の利かない前衛をまとめて引き抜かれたパーティーは悲惨だ。戦闘力の低下による獲得経験値の減少は残ったメンバーの離反に繋がるし、そういう噂のたったパーティーは優秀なプレイヤーから敬遠されてさらにレベルの低下をきたすという悪循環に陥り易い。  おそらくこのパーティーも先のパターンから逃れられなかったのだろう。あるいはそのそもそもの原因は、RPDと女の特殊な関係がパーティー内の人間関係に微妙な影を落としたことにあるのかもしれない。金と女のゴタゴタは、人間の集団であればそれが架空の世界であってもついて回る永遠の課題だった。 「あの男、あんたが殴り倒した……」 「あの使えない盗賊《シーフ》か」 「親父が闇市の顔だとかで、面倒みるかわりに装備とアクセス料金を貰ったのさ。前金でな」  RPDの口元が歪み、俺は思わず目を逸らせた。寡黙な戦士《ファイター》が浮かべてはならない表情だった。 「あいつには目標がある。高位聖職者《ハイビショップ》としてフラグを狙えるようなレベルのパーティーを組織する……まあ夢みたいな話だが、オレだけは最後までつき合ってやるつもりなのさ」  冗談じゃない。  愛妻物語どころか、これでは人生山あり谷ありの根性物語《ガッツストーリー》だった。  俺は他人の事情に不用意に頭を突っ込む自分の因果な性格を呪った。  傭兵《マークス》には向かない性格だ。 「それで俺を雇ったのか」 「クラスBあたりでブイブイ言ってたような連中だ。オレとあいつだけじゃ手が回らん」  声に怒気を込めたつもりだったが、RPDの声には悪びれた様子もなかった。寡黙な男というより、たんなる鈍感な男なのかもしれない。  清算を終えた女がこちらへ向かって歩き出したのを契機に、俺はRPDとの会話を打ち切って腰を上げた。  清算用端末《キャッシャー》のディスプレイに表示されたポイントを確認して自分のID《カード》をスリットに滑らせる。  今回の作戦《ミッション》は派手に撃ち過ぎたので、308NATO弾を補充し、ついでにそろそろ命数のきていたFALのバレル交換にもポイントを割いた。こういった装備のメンテナンスはポイントに余裕のある時にしかできないし、これを怠れば戦場《フィールド》で泣きを見ることになる。サイドアームのPPKを売り払ってSIGに買い換える計画もあるし、AC《アーマークラス》2レベルに相当する旧US海兵隊《マリン》の防弾ジャケットにも興味があったのだが、それらは諦めることにして残ポイント全てを現金《キャッシュ》にした。  こんなけったくその悪い経験値をレベルアップに回す気になれなかったし、懐もかなり寂しくなっていた。  端末から吐き出された紙幣を丸めてズボンの尻ポケットに突っ込み、俺は挨拶もそこそこに逃げるようにその場を離れた。   3  端末《ブランチ》のある古い建物を後にして夜の町へ出ると、いつものように雨だった。  それほど遅い時刻ではなかったが、通りを行き交う車の数はこの街がこの国の首都であることを疑わせるほど少なく、俺は上着の襟を立てて地下鉄への道を走った。  これもいつものことだが、地下鉄のホームにも人気は無い。たまに見かけるとすれば、ベンチを占拠して眠り呆けているアル中か、なけなしの財産を抱え込んで蹲っているホームレスくらいのもので、ここが地上から流れ込んでくる夥しいゴミとゴミ同然の人間たちの掃き溜めであることを証明していた。  財政難に喘ぐ市当局が人、物を問わず、街からゴミを一掃することに情熱を失ってからすでに久しい。地上こそまだ街としての体面をかろうじて保っているものの、行政の手の及ばなくなった地下鉄構内や地下街の一部は実質的に治外法権地帯と化していた。  真っ当な人間ならこんな時間にこんな場所をうろついたりはしない。もっとも失業率が驚異的な数字を示し、生活保障の受給者が納税者を大きく上回る時代に真っ当と呼べる人間がどれだけいるのかは疑問だが。  ゴミ溜めのようなホームに塵芥運搬車のような列車が到着し、俺はいつもの通り中央の車両を選んで乗り込んだ。  乗客のまばらな車内を一瞥し、ドア近くの席に腰掛けると微かな振動とともに列車が音もなく滑り出す。リニア駆動車特有の低く唸るような擦過音が車内に響き始めた。  皮肉なことに政治家や聖職者はもちろん、識者と呼ばれる人間たちによってあらゆる非難を浴びせられ批判に晒された【アヴァロン】の流行以来、犯罪の発生率そのものは減少の傾向を示していた。経済不況とそれに伴う失業率の増加が犯罪発生率と比例関係にあるという原則からすれば、これは異例のことと思われるだろうが——俺に言わせれば当然の結果だ。怨恨や異常心理による殺人は別として、強盗や恐喝、営利誘拐など、最終的に金銭の奪取を目的とする犯罪において金銭の奪取そのものは動機であり目的であると同時に、また結果でもあり得る。殊にそれが常習犯罪の場合その動機と結果の因果関係は容易に逆転し得るものであり、それが犯罪であるがゆえにそれを犯す、という犯罪の本質に関わる逆説は少なくとも「低収入高福祉」を実現した世界、つまり「飢えと病からは解放されたがそれ以上を望むことができない」世の中にあって正論となったのだ。  前世紀において私有の否定と計画経済を掲げて人類の理想を説いたイデオロギーが自滅し、これに勝利した陣営が掲げた市場競争の原理は激しい地域格差とその結果としての内戦を世界中で惹き起こしてこれを恒常化した。二つの陣営が覇を競い合っていた時代に鳴りを潜めていた勢力、つまり頑迷な民族主義や不寛容な宗教が亡霊のように復活してこれに拍車をかけ、これらを制御しようとしたあらゆる試みが失敗に終わったとき、人々は再び自らを檻に閉じ込めることを望んだのだ。  競争もないが発展もまた存在しない社会。  停滞が結果としてもたらす安定。  かつての神やイデオロギーに替わってそれを可能にしたのが科学技術《テクノロジー》であり、限りある資源の集積と公平な分配という永遠の課題は政治や経済活動の大幅な後退によってのみ果たされたのだ。科学技術そのものを掌握しようとする旧時代の為政者たちは急速に没落し、国家もまた集配機構の管理単位として地理学的な区分にまでその位置を後退させた。それはかつて説かれた単純再生産社会《ユートピア》の皮肉な実現であり、社会的生産活動の総和を固定された新たな中世の再来でもあった。  この「|技術の平和《パクステクノロギア》」を脅かす存在があるとすれば、それはその恩恵を享受する人々の理不尽な欲望だけだ。  飢えを満たし、病や自然の脅威から逃れて子孫を残す——ただ純粋に生物的欲求を満たすことのみによって生きることを肯んじ得ず、その生存や生産活動に「意義」や「意味」を見出そうとする人間的欲求がそれだった。がしかし、この「意義」や「意味」が「理想」や「正義」に結びつくたびにいかなる悲劇が繰り返されたかは、歴史を紐解くまでもなく前世紀以来の内戦の経験によって人々のよく知るところだった。  人々がついに自ら管理し得なかったこの欲求を現実でなく虚構に封じ込めたのはもちろん意思的な選択ではなく結果に過ぎなかったが、それを可能にしたのがまたしても科学技術であったことだけは間違いない。  断っておくが俺は【アヴァロン】の開発者たちがそのことを予見していた、などということを主張したいわけではない。【アヴァロン】もまた様々な社会現象から選び取られた解答の一部に過ぎないが、結果的にそれが人々の「人間的欲求」に見事に合致していたことも確かだった。人はそこで自ら望む者になるために情熱を傾け、それを正当に評価されて報酬を得る。しかもその可能性は最低限のルールの下に平等に設定されており、しかも現実とは異なって何度でも再挑戦が許されているのだ。  誰もが夢中になるのが当然だった。  経験値を換金して手に入れる現金は確かに大きな魅力だし、生活物資の受給システムが徹底して管理されている今の世の中で嗜好品の類や気の利いた調度、非合法な薬から女に到るまで現金でしか入手できないものは数多くある。それが【アヴァロン】をここまで流行させた原動力となったことも確かだが、しかしあくまでそれは結果に過ぎない。 【アヴァロン】にアクセスする者たちが等しく追い求めるもの——ハイレベルのキャラクターだけは決して金で買うことができない。【アヴァロン】はその世界で理想を追う者に常に最大限の要求を課しつづける。金と時間はもちろん、弛まぬ努力と情熱、そして厳しい自己抑制を貫き得た者だけが賞賛を浴び、敬意を払われるに値する上級者《マスター》の称号を獲得できる——なんなら求道者の世界なのだと言っても過言ではないかもしれない。金と暇を持て余した道楽者や粗暴さを売りものにする類の人間が容易に成し得る業ではないし、社会的地位や縁故の類も一切通用しない。しかもそこで演じられるキャラクターは、プレイヤーの経験値の配分によって細かく設定された膨大なパラメータの組み合わせによって表現され、ひとつとして同じものがない唯一無比の存在であり、システムが存続する限り永遠にして不滅の存在だ。  復活を約されて永遠の眠りについている、あの英雄《アーサー》のように。  もちろんどれほど情熱を傾けようと所詮はゲームに過ぎないし、そこで獲得した全ては一片のデータに過ぎないのだという見方をする者も確かに存在する。俺が端末《ターミナル》の便所で痛めつけたあのカスどもがそうであるように。  幸せな奴らだと言うほかはない。  現実こそは真実であり虚構の世界は空しいなどと考えるその単純な精神構造が、だ。  ただ社会的通念なるものを唯一の根拠に語られる「現実」など語る当人にのみ所属する現実であり、他人にとってはそれこそ虚構そのものでしかあり得ない。一方で明瞭に意識された「虚構」は当人に所属する現実の一部であり、意識されているという次元において誰もが共感可能な現実たり得る。現実などという代物は所詮は個々人が所有する虚構に過ぎず、人は他人の虚構の皮膜に映った自分を現実と呼んでいるだけの話だ。  架空の世界における達成が空しいなら現実の世界におけるそれも同様だ。デジタルデータに保存された永遠が有限であるように、現実もまた個人の生によって限定された世界でしかないのだから。  人間が情熱を傾けることの価値はそれが現実であるか虚構であるかを問わない。そして情熱を傾けた結果が正当に評価される世界が存在する限り、人間が自分の現実を見失うこともまたあり得ない。現実の社会がその公正な評価のシステムを欠くとするなら人間は自分の現実を見出すために虚構に情熱を傾けるものだし、飢えに直結しない多くの犯罪もまた現実を求めて得られぬ者が演じる虚構に過ぎない。現実の可能性を制限することによってかろうじて危険極まりない「人間的欲求」と折れ合ったこの時代が、一方で虚構を必要としたのは当然の成り行きだった。  そして【アヴァロン】はその必要性を充分に満たすシステムであり得た。  敢えて難点をあげるとすれば、その世界が破壊と殺戮に満ちていたことだろうが——結局のところ、人が「意義」や「意味」を見出したいと望む情熱の本質が「闘争」であり「暴力」であったという事実を謙虚に受け止める以外に致しかたないし、これを現実のものとした歴史を繰り返すよりマシと言うべきだろう。公序良俗の維持を建前とする当局がこれを非合法としながら、おざなりな手入れを繰り返すだけで実質的に黙認している事実がその辺の事情を何より雄弁に語っている。俺が通っているような【端末《ブランチ》】は全国に二〇〇以上存在しているし、それに群がるプレイヤーの総数も五〇〇万を下らないだろうと言われている。世界的な規模の数字となると、これはもう想像もつかない。  ただひとつ皮肉なことは【アヴァロン】のアクセス料金を稼ぐための恐喝や強盗の類が急増していることであり、いま俺がこうして乗っている地下鉄の車内などは間違いなくその多発地区のひとつだった。  遺憾ながら現実の傭兵《マークス》はFALはおろかサイドアームのPPKすら所持していない丸腰であり、地下鉄を徘徊する恐喝少年団にも対処し得ない【|住人たち《ニュートラル》】の一人に過ぎない。俺が逃げ場のない最前列や最後尾でなく、襲われた際に逃げ出して次の駅までの時間を稼げる中央の車両の、それもドア近くに腰掛けている理由がそれだった。  何事も用心に越したことはないが……しかし、用心するような人間ほど厄介事に巻き込まれるというのも確かなことのようだった。  後部車両との間の扉が開いて五人組の若僧が姿を現わした。  全員が戦車兵帽を被り、顔面一杯に十文字の迷彩《インシグニア》を施していた。裸の上半身にレプリカの防弾ベストを着込み、膝丈で断ち切った濃緑色のフィールドパンツに重そうなジャングルブーツで足を固めている。まず間違いなく【アヴァロン】のプレイヤーたちだったが、こんなコスプレまがいの格好で現実《ニュートラル》を徘徊するような連中に上級者がいるわけがない。おそらくクラスBあたりでイキがっている半端なパーティーだろうが、ところ変わればなんとやらで、この場においては充分な戦力と言えた。  車内を一瞥した先頭の男が目敏く俺を見つけ、嫌な笑いを浮かべて後ろの連中に何か話しかける。一斉に笑い声が湧き起こり五人組が俺に向かって歩き出した。  揉め事の前兆だった。  俺は何気なさを装って席を離れ、ドアの傍らに移動した。  直ちに走って逃げ出せば連中は必ず追ってくる。逃げ足には自信があったが、拙いことに列車は発車したばかりで次の駅に到着する前に追い詰められる可能性が大きかった。  だが座ったままで囲まれるような絶対的に不利な態勢だけは避けなければならない。中途半端なようだが逃げ場のない車内という地形効果を考慮すると、他に選択の余地はなかった。  このまま黙って通り過ぎてくれ、という願いも空しく五人組は俺の傍らで足を止めた。 「お願いがあるんだ」と先頭の男が言い、聞いてくれないかと続けた。  俺はお願いされる気など毛頭なかったが、それを口に出せば即座に戦闘に突入するであろうことは火を見るよりも明らかだった。いずれそうなるであろうことも確かだったが今は時間を稼ぎたい。 「お願いって、オレにか」  俺は努めて平静な声と態度でそう答えた。 「ああ、あんたにだ。是非聞いて貰いたい」  数の優位に基づく余裕を誇示しながら、再び先頭の男が言った。この手の物言いで威圧感を与えることが好きなのかもしれないが、俺にとっては好都合だった。 「いいだろう。言ってみろ」  俺は体の力を抜いてドアに寄りかかり、相手を威嚇しない程度の半眼に構えて先頭の男を見つめた。こういった手合いは獣と同じで、目を見つめられることを最も嫌う。俗にガンをとばす、ガンづけする等の言葉で表現される「ガン」とはこの眼《ガン》のことを指す。俺は男の被った戦車兵帽の額の部分についた小さな記章《メダル》に焦点を合わせることに決めた。赤い星の中心に鎌と槌を交差させた紋章が描かれ、その周囲を意匠化された植物の葉が囲んでいる。遠い昔に崩壊した帝国の親衛戦車連隊の記章だった。 「オレたちゃ戦闘《ゲーム》で日銭稼いで暮らしてる身の上でね。結構な身分に見えるかもしれんが、これで暮らしは結構きついんだ。なにかと物要りは多いし端末《ターミナル》のアクセス料金は悪質なくらい高いときてる」  アクセス料金が悪質なくらい高いのは事実だが、他の部分はもちろん嘘っぱちだ。こんな道化まがいのパーティーが戦闘で喰えるレベルであるわけがない。恐喝《カツアゲ》で喰っているというのが真相だろう。 「ここんとこツキにも見放されちまって、そのアクセス料金すら払えない始末でね。オレたちにゃ死活問題ってわけよ。そこでだ……」  そおらきた、と俺は思ったがもちろん口には出さない。 「困難な状況に置かれたオレたちに寄付《カンパ》をお願いしたい」 「趣旨はよく判った」  要するにカネを出せ、ということだ。 「趣旨は判ったが、何故オレがカンパせにゃならんのかな」  ンだくらああぁ、という意味不明の呪文が男の背後から飛び出した。  目の前の男が理想としているらしい「静かな威圧」が実効を示さず、のらくらとした俺の対応によって一向に場が盛り上がらぬことに業を煮やした手下の一人が、怒声を発することでアドレナリンの湧出を促しにかかったらしい。  一般に路上における恐喝《カツアゲ》という行為は、相手を自分の意に従わせるために様々な種類の威嚇を用いるが、暴力の行使を暗に仄めかすことだけは一貫して共通している。ところが暴力というものを意図的に発動することは常習者といえども容易でなく、平素の心理状態における暴力への禁忌を打ち破るためには常に一定の心理的手続きを必要とする。敵愾心や憎悪を盛り立てるための威圧的な態度、威嚇的言動の応酬等がこれに相当する。もちろん生来的に暴力に対する禁忌が極端に乏しく、この心理的移行にほとんど抵抗を感じない異常な精神の持ち主も稀に存在するが、そういった稀少者はそもそも恐喝などという手間も暇もかかる犯罪に手を染めたりはしない。恐喝という犯罪の特徴は、それが直接的な暴力を背景としたものであれ相手の醜聞を手段としたものであれ、金品の奪取という最終目的へ到る過程に必然的に生じる被害者への優越感の獲得、支配欲の充溢それ自身を半ば目的とする点にあり、被害者との葛藤を可能な限り避けようとする強盗や窃盗とは根本的に異なる。したがって恐喝される側が相手の威嚇に屈することなく心理的優位を保って敢然とこれに対処した場合は恐喝という行為は成立せず、結果的に暴力に屈した場合は直ちに恐喝転じて強盗傷害事件となる。  まあ、屈辱に甘んじるかプライドを守ってフクロにされるかの二者択一になるわけだが、俺はもちろん両方とも避けたかった。  が、しかし—— 「あんた傭兵《マークス》だろ」と男が平然と洩らした台詞に俺は思わず動揺した。 「あんたは傭兵だ。いつも弱小パーティーの弱みにつけこんで法外な分け前を要求して、一人でいい思いしてんだろ。先刻も端末の便所でカツあげたじゃねえか」  今度こそ俺は仰天した。  そこまで知っている以上、この連中が通りすがりに因縁《アヤ》をつけて小銭を稼ぐケチな恐喝少年団であるわけがなかった。おそらく端末から後を尾け、逃げ場のない地下鉄に乗り込むのを待って接近してきたのだろう。  普段の俺であればこんな連中に尾行を許すようなドジは踏まない。演り慣れない狂戦士《バーサーカー》の奮闘にひきつづき、これまた似合わない恐喝まがいの真似までやらかしたその挙句に腐れ縁の男女の救えない関係に頭を突っ込んで消耗し、実は想像以上にナーバスになっていたのかもしれない。  俺は自身の迂闊さを呪ったが、ことここに到ってはすでに手遅れだった。  目の前で臍を噛む俺をしばらく楽しそうに眺めていた男がゆっくりと口を開いた。 「どうせカツあげたカネだ。オレたちにカツあげられたって文句を言う筋合いじゃねえや。諦めてその尻ポケットのゼニを出しちまえば、痛い目だけは見ないで済むぜ」  そう言って男は愉しそうに笑い声をあげ、後ろの手下どもがそれに和した。  短機関銃が欲しい、と俺は痛切に思った。  短機関銃さえあればこんなクズどもを制圧するのに一秒とかからない。一連射一掃射でカタがつく。  もちろん短機関銃など手に入る筈もなく、俺は目の前で馬鹿笑いしている男の顔面に思い切り自分の頭を叩きつけた。  攻勢者三倍則という原則がある。  戦闘において強固に守備を固めた敵を攻撃する側は守備側の三倍の戦力を要する、という実戦訓なのだが、今の俺に照らして言えば敵は五倍であり、しかもトーチカも自動火器もない素手での戦闘であり、なおかつ敵はアタマはともかく体力に優る若僧たちだったから数的にはもちろん単位あたりの戦力においても俺に勝ち目はなかった。だが戦闘以外に選択肢が存在しないならば、あらゆる戦闘において先制攻撃を成功させた者は優位に立ち、そして奇襲に勝る先制攻撃は存在しないという戦訓に倣うしかない。  間合いの極端に狭い近接白兵戦闘では、なんと言っても頭突きがモノをいう。大きな予備動作を必要とするパンチやキックに比べてスピードに遥かに優り、しかも硬度および質量において拳や靴底を凌駕する。難を言えば目の前に火花が飛んで瞬時判断力を失うことだが、贅沢を並べられる状況ではなかった。鼻骨を折られ鼻血を撒き散らして倒れこむ男を受け止めて手下どもの列線が大きく揺らぎ、素早く走って逃げると見せて踏み止まった俺は身を旋転させながら手近の手下の顔面に第二弾の頭突きを喰らわせた。  その手下が昏倒するのを尻目に今度こそ俺は遁走を開始した。  連続して頭に衝撃《ダメージ》を受けた影響で視界がチカチカと妙に明るかったが、待てェだの、くのやろおだのといった定型句を叫びながら迫る追っ手の気配を尻の帆に受けて車内を全力疾走し、折り良く駅に到着して開いた扉から飛び出すやホーム後端を流れるエスカレーターまでさらにひた走ってこれにひらりと跳び移る。  素早く振り向いて背後を窺う。  ——と、昏倒した二人を置き去りにしたらしい三人が俺につづいて跳び乗り駆け上がってくるのが見えた。  声にならない悲鳴を呑みこみ抜けそうになる腰を叱咤して俺も必死で駆け上がり、動かぬ床に足がつくなり一世一代の一文字蹴りを直後の追っ手に放つ。これが高所優位の地形効果を呼んで見事に顎に炸裂し、三人はドタドタと酷い音をたてながら折り重なり前後し縺れあいながら転落していった。  奇跡の逆転勝利を収めた俺は、再び雨の降りしきる夜の街へ逃れた。   4  配食所《メスホール》はすでに深夜近い時間であるにもかかわらず、混雑していた。 【親衛戦車連隊】の包囲を強行突破し、地下鉄構内からの脱出に辛くも成功した俺は、さすがにもう一度地下鉄に乗り直す気になれず俺の部屋《ベッド》近くにあるこの配食所まで雨の中を走りつづけてきたのだった。  ちょっとした体育館ほどもあるホールの内部はその日の糧を求める失業者、浮浪者、年金受給生活者や正体不明の遊民たちで溢れ、壁に穿たれた大型の換気装置の全力運転が徒労と思えるほどの臭気やら食器の触れ合う甲高い音やらわけの判らない会話やらが一緒くたにおじやのように攪拌され煮詰められて充満していた。  俺は配食の順番を待って長蛇の列を成す人間たちをうんざりして眺め、その中で比較的短いと判断した列の後端に就いた。  気の遠くなるような時間経過の後に認証カウンターに到達した俺は、身分証明も兼ねる受給カードを専用スリットに通し、傍らの台車から消毒済みの軽金属製の盆《トレイ》を引き出した。  再び配食カウンターの列に並び直す。  配食そのものはカフェテリア方式で好きなものを好きなだけ盆に載せるわけだが、実質的に選択の余地など無いも同然だった。  切る手間を省略するために球状に成型されたパン。  盆と同じ軽金属製の皿に盛られたシチュー。  食物繊維補強用のビスケット。  各種ビタミンやミネラルを大量に加えられその結果として奇怪な味となったジュース。  ペットボトル入りのミネラルウォーター。  これだけのメニューの中から選ぶということはつまり、どれを盆に載せないかの自由が存在するだけ、ということだ。  メニューは一日三回朝昼晩の区別無くランダムに変わるが、それとてシチューの中味が変更されるだけであり、その種類も俺の知る限り全部で六種類しかない。  俺は積み上げられたパンの山から二つを取り、ひとつをポケットに捻じ込んだ。並べられたシチュー皿の中から一番奥にあるものを選んで盆に載せる。手前にある皿はすでに冷えて表面に膜が張っているからだ。誰もがそうするので手前に並んだ皿のそれは最終的には糊のように固まり、逆さにして振っても剥れなくなる。便秘防止のためにビスケットを一枚シチューに放り込み、ジュースはその場で飲み干して空いたプラスチックのカップをミネラルウォーターのペットボトルに被せて盆に載せ、カウンターを離れた。  ホールの中央部には、コンクリートの床にボルトで固定された二〇人掛けのテーブルがぎっしりと並べられているが、その全てが満席状態であり、盆を抱えて席の空きを待つ人間たちがその周囲を取り囲んでいた。席を起つものが現れると、目敏くそれを発見した数人がたちまち殺到してテーブル間の狭い空間で押し合いヘし合いを演じた挙句、盆からこぼれ落ちたシチューを頭から浴びた親父の絶叫やジュースで服を汚された女の罵声が飛び交う。そんな愚劇に参加する気を端から放棄した連中は壁際に蹲み、あるいは壁に背を預けて盆を片手に器用に立喰っていたが、俺は幸運にも床を這う送風用ダクトに空席を見つけて陣取ることができた。  温風の流れるダクトは仄かに暖かく、俺は早速食事を開始した。  真っ先に固いパンを丹念に千切ってシチューに放り込み、先割れのスプーンで攪拌する。  この作業はシチューが熱量を保持している間に完了させなければならなかった。フスマを焼き固めたようなパンは、こうして水気を含ませることなしに喉を通るようなシロモノではないからだ。シチューの熱と水気を吸ったパンがいいようにふやけたところで喰い始める。  一日の間に虚実双方で大立ち回りをやらかした俺は犬のように空腹だった。  今日のシチューは魚粉を練って油で揚げたミートボールを根菜類と共に煮込んだトマト味のものだったが、これは合成蛋白肉入りカレーシチューやマカロニの大量に入ったクリームシチューに次いで、俺が三番目に好むメニューだった。  皿を抱えて口につけ、スプーンで掻き込みながら夢中で喰う。  世間ではこういう食事を「犬飯」あるいは「犬喰い」と称し、露骨に嫌悪する人間もいるが俺は気にしない。こんな場所でこんな飯を喰うことも別にとりたてて惨めだと思ったことはない。味も含めての話だが、結構気に入っていると言ってもいい。もちろん好んで通っているわけではないし、現金《キャッシュ》さえあれば闇市《マーケット》で「本物の」飯が喰えることも承知だ。  実際、闇市では何でも買えるし何でも喰える。  そこには本物の肉や魚や炊き立ての飯を喰わせる店があるし、女を置いて酒を飲ませる店まである。俺自身そういった店に何度か出入りしたこともある。だが他のプレイヤーたちはともかく、俺を含めて傭兵《マークス》と呼ばれる人間たちの多くはそういった世界とは無縁に生きていた。これは傭兵という言葉がもたらす連想からすると意外に思えるかもしれないし、先刻地下鉄で俺を襲ったカスどものように傭兵を勝手気儘に太く短く生きるプレイヤーだと誤解している人間も多いが——それは大変な誤解なのだ。  そもそも【アヴァロン】の正式な階級《クラス》に【傭兵】なるものは存在しない。何らかの理由でパーティーを組むことができなくなったハイレベルのプレイヤーがいて、同じく何らかの理由で戦力の補強を余儀なくされたパーティーがあったときに、双方の利害の一致が生み出した存在こそが傭兵《マークス》だったのだ。ハイレベルの傭兵《マークス》と言えども単独で戦場《フィールド》にアクセスして生還することは難しいし、強力な獲物を倒して経験値《ポイント》を稼ぐことはパーティーのバックアップなしには不可能だ。そのことは、例えば今日の俺の奮闘も敵がザコ同然の【掠奪者《ルーター》】だったからこそ可能だったのであり、これが【正規歩兵《トルーパー》】一個小隊を向こうに回していたら結果は大きく異なった筈だ。歩兵戦闘車《BMP》の一台でも出現していたら全滅は免れないし、そもそも装甲戦闘車両と事を構えるとなれば、RPGのような強力な携行火器を操る【魔導師《メイジ》】の参加は絶対必要条件となる。そういった意味で言えば傭兵《マークス》という存在はあくまで例外的なプレイヤーではあり得ても、誰もが畏敬の念を抱くあの伝説の【単独者《ソロプレイヤー》】とは本質的に異なる。 【アヴァロン】の戦場《フィールド》は容易に単独プレイを許すような世界ではないし、ましてクラスAともなれば生還することそれ自体が目的たらざるを得ないほど厳しい条件づけが為されている。  だから傭兵《マークス》の多くが、俺自身がそうであるような戦士階級《ファイタークラス》に属していることも決して偶然ではなく、ほとんどのパーティーが常に前衛戦力の不足に悩んでいるという現状の反映に過ぎない。資金や経験値に余力のあるパーティーは作戦《ミッション》の難易度に応じて盗賊や魔導師を雇うこともあるが、その絶対数が極端に少ないこともこの辺の事情を傍証していると言ってよいだろう。同様の理由でパーティーを主宰する司教《ビショップ》が傭兵に存在しない理由も明らかだ。この種の本来は存在しない階級がいわば慣習的に定着した例としては他に【狙撃手】がいるが、これは戦士《ファイター》がパーティー内部で極端に特殊化した例であって、需要がその存在を促した傭兵《マークス》とはそもそもの由来からして異なる。  要するに【傭兵《マークス》】なるものは、階級《クラス》という概念が本来そうであるべき戦闘技能の専門性・兵科と同列に語るべきものでなく、プレイヤーの職業的形態を表わすものに過ぎない。したがってその役割も端的に戦力の補強としての参加から始まって、新人養成パーティーの教官、新たにクラスAに参入したパーティーの案内役《ガイド》に到るまで実に多様であり、「万ず引き受けます」式の何でも屋であるのがその実態だ。なんならフリーのプレイヤーと呼ぶのが最も理解しやすいかもしれない。  そしてここからが重要なのだが、どの職業においてもフリーランスと呼ばれる人間がそうであるように傭兵もまた個人の技量と信用が全てであり、組織のバックアップを期待できない以上、その営業上のあらゆる条件を全て自前で用意しなければならない。これを傭兵という存在に則して言うなら、まずもって優れた技能《スキル》を有することが大前提であり、それが戦士である場合、最低限二桁のレベルに到達していることを意味する。アクセス料金はパーティー持ちだが、装備や弾薬、およびそのメンテナンスは自前が当然であり、これが実はバカにならない。消費する弾薬量は作戦《ミッション》によって大きく異なるが、生還できなければ元も子もないから撃つときは撃たねばならない。かつて俺が組んだことのある傭兵の一人は俺と同じ308NATO弾を使用するFN—MAGを装備していたが、常に消費弾薬と獲得経験値のアンバランスに悩んでいて、後に特定のパーティーとの契約を結んで傭兵稼業から足を洗ってしまった。本来、消費弾薬量の膨大な|機関銃使い《マシンガナー》は強力な戦力となる反面、裕福なパーティーでなければ養えない存在なのだ。余談ながら、俺が遠射能力に優れ、しかも命中判定上で小口径弾にアドバンテージを持つ30口径のFALの、しかも全自動射撃機構を持たない型を愛用する理由の一端もこの辺の事情に由来する。弾薬消費の問題は傭兵が抱える普遍的な問題のひとつだが、問題はそれだけでは無論ない。【アヴァロン】のシステムがその装備に対して設定したデータは可能な限り現実のそれを忠実に模したものであり、特に現実の兵士たちと異なって日常的に発砲を繰り返す火器のメンテナンス、わけても銃身劣化《エロージョン》とその対策としての銃身交換の問題はそれなりに深刻だった。使用銃器を二〇世紀後半の軍用銃に制限した開発者たちの思惑は不明だが、後に開発された低腔圧の弾薬や冶金加工技術の飛躍的発展による命数の長い銃身などは存在しないから、プレイヤーは銃身交換もしくは銃器そのものの更新以外にこれに対処する手段を持たない。先にも触れたがプレイヤーの多くはその装備を自らが演じるキャラクターの一部であると認識しているし、殊にその使用火器に関しては激しい執着を示す傾向があり、劣化の進んだ銃器を使用しつづけることには実効面以外にも強い心理的抵抗を伴う。これがAKのように取得経験値が低く、戦場での鹵獲も容易な銃器を使用する場合ならともかく、性能それ自体の要素以上に個性的でそれゆえに少数生産だった銃器を好む多くのプレイヤーの場合、貴重な経験値を定期的な銃身交換に割かねばならない。言うまでもなく、その戦闘技能と個性を売り物にする傭兵はその装備にことのほか神経質で、「AK使いに名手なし」などという言葉が横行するくらいだからメンテナンスに経験値を惜しまない。かくいう俺も愛用のFALに高額の競技用銃身《マッチバレル》を換装するような男だから少々の稼ぎでは追いつかない。ほとんどの傭兵が実は高率の割戻し契約にも拘わらず、その装備の維持と獲得経験値のバランスシートに悩む存在でしかなかった。  まさにあの【親衛戦車連隊】のカスどもの台詞ではないが「結構な身分に見えても何かと物要りは多く、暮らしは結構きつい」のが傭兵《マークス》稼業なのだ。  幸いにして俺は配食所のタダ飯が嫌いではないが、その実態は生活苦に喘ぐ失業者と大差ない。今日の稼ぎも弾薬と競技用銃身《マッチバレル》にその大半が消え、定かならぬ次の仕事までの生活を残金で支えなくてはならない身の上だった。  飯を喰い終わり、俺は台車にコンテナを満載して転がしてきた中年女を呼び止めた。  配食所内での飲酒は禁止されていたが、それを制止するような人間はそもそもこんな場所を訪れたりはしない。俺はその女から現金と引き換えに密造酒のボトルを一本買った。プラスチックの半透明な瓶に耳の長い犬のラベルが貼られたそれは愛好者の間でクレイモアと呼ばれているシロモノで、現実に存在した対人地雷《クレイモア》同様に一撃で全てを吹き飛ばす威力を売り物にしていた。キャップを捻ってその中味を口腔に放り込むと、なんとも形容しようのない化学的《ケミカル》な香りが全身を包み、食道から胃袋に到る内壁が焼け爛れた。その恐るべき低価格と即効性によって無数のアル中を都市内に蔓延させた元凶を、俺はジュースの入っていたカップに注いでミネラルウォーターで割った。それでもなおウォッカ並みに強力な水割りを飲りながら、俺は今日という日を振り返ってみた。  馬鹿な連中に振り回されて大馬鹿を演じ、その馬鹿な連中からせしめた金をさらに悪質な馬鹿どもに奪われかけたが何とか逃げ遂せ、こうして飯も喰ったし酒も飲んだ。  後は塒に帰って寝るだけだ。  良くはないが最悪と言うほど酷くもない——そんな生活にいつ頃から浸っているのか思い出すことも億劫なほど酒が回り始めていた。  ホールの中を蠢く人間たちが影絵のように輪郭を滲ませ、おじやのような喧騒が急速に後退してゆく。  俺はクレイモアの酩酊の中で繰り返しひとつの言葉を呟いていた。  この世界は常に強烈な既視感に満ちている——。 [#改ページ] 灰色の貴婦人——グレイレディ   1  俺は夢を見ていたらしい。  その夢の中で俺はFALの閉鎖不良に気づいてコッキングハンドルを引きながらバックアップのPPKが装弾済みだったかどうかを必死になって思い出そうとしていたり、前方から迫る敵を照準しながらサイトの調整が狂っていることに気づいて慌てていたりするのだが、その場所は通い慣れた戦場《フィールド》の瓦礫の陰だった筈が、どこまでもつづく端末《ブランチ》の長い廊下に変わり、いつの間にか冷たい雨が降りしきる無人の配食所《メスホール》だったりもする。取り返しのつかないミスを犯したことに気づいた俺は焼けつくような焦燥感に急き立てられて何か叫ぶのだが振り返るとそこには後続している仲間の姿はもちろんどこにもなく、これはいつもの夢なのだと思い出した途端に目が覚めるのだ。  目覚めはいつものように最悪だった。  それがいま見た夢のせいなのか、クレイモアの副作用なのか、それともこれから始まる現実の薄ら寒さへの忌避感に由来するのかは判らないが。  時計代わりに床に転がしてある端末《ディスプレイ》のクロックが、すでに夕刻近い時間であることを示していた。  俺はのろのろとベッドから起き上がり、下着を脱ぎ捨てて部屋の隅の浴室へ向かった。  浴室と言っても湯を張ってじっくりと浸かれるような浴槽があるわけではない。中に入って扉を閉めればそれきりの洗面所を兼ねたロッカー式のユニットバスだ。床の踏板に乗ると天井から勢いよくシャワーが噴き出す。湯の温度は常に熱すぎるか冷たいかで中庸というものがなかったが、循環式なので水量だけは豊富だった。俺は背筋を伸ばして顔でシャワーを受けながら排尿し、ついでに排ガスも済ませる。循環式シャワーのフィルター性能に疑惑を抱いてこのやり方を嫌う奴もいるが、俺は開放感に満ちたこの儀式が好きだった。  右足を踏み直すと湯が止まり、今度は温風が——吹き降ろしてこない。何度か踏み直しながら、俺はそれが故障して久しいことを思い出して舌打ちした。  汚れ物のバスケットの中からもっとも清潔と思えるタオルを選んで体を拭き、ベッドを除けばこの部屋の唯一の調度である合成皮革張りのソファに体を投げ出して、体が完全に乾くのを待って食事の支度を始めた。  食品戸棚として使用している電子オーブンから冷凍乾燥米と乾燥野菜の箱を取り出し、軽金属製の調理鍋《ポッド》に適量をザラザラと放り込んで固形スープと水を加える。電源端末《コンセント》からケーブルを引き出して繋ぎ、出来上がるのを待つ間に今度は冷蔵庫から牛乳の大型パックを取り出し、匂いを確かめてから納得のいくまで飲んだ。  カチリとスイッチの切れる音が響き、薬缶のような形状のポッドの蓋を外すとたちまち芳香が室内に満ちる。少し考えてから、これにタラコマヨネーズ味のトッピングパウダーを加える。  俺は完成したおじやを抱えてソファの上に胡座をかき、配食所からくすねてきた先割れスプーンを使ってゆっくりと喰い始めた。  牛乳を除けば全て闇市で購入した軍の放出物資だ。こういった食品は格安であるばかりでなく、栄養も豊富な上に大方の予想を裏切って味も悪くない。調理の手間はかかるが、一人前ずつ包装したものを高周波加熱して食べるような前世紀の食生活習慣は廃れて久しく、俺のような生活保護指定を受けているような遊民にとっては部屋で飯を喰うこと自体が一種の贅沢とも言えた。この時間の配食所の混雑は尋常でないし、夕刻前に起きたことのない俺の数少ない生活習慣のひとつだった。  食後、煙草を二本灰にしてからポッドを洗面台に放り込み、俺は民生課の役人たちが決して認めることのない職場へ向かった。  端末《ブランチ》は回線の接続が開始される夕刻から混み始める。  ロビーはもちろん各種端末の並ぶ長い廊下にまでプレイヤーたちが溢れ、群れなして行き交い、そこかしこで作戦《ミッション》会議に余念のないパーティーが円陣を組んで座り込んでいた。 そういった連中を擦り抜けるようにして廊下を進んだ俺は、ようやくいつもの仕事場に辿り着いた。  回線状況を表示する巨大なディスプレイが斜めに差し掛けられたその一画を、プレイヤーたちは【傭兵待機所《ピスト》】と呼んでいた。  傭兵《マークス》を必要とするパーティーはここを訪れて直接交渉によって契約条件に適う人材を雇い、その一方で傭兵は自分に有利な条件を提示するパーティーを待つ——言ってみれば傭兵の需給を賄う自由市場がこの一画だった。雇う側からすれば、アクセス料金を被った上に貴重な獲得経験値《ポイント》の高率な割戻しを保証するわけだから、見かけ倒しの傭兵などと契約しようものなら目も当てられない。凄腕で、忠実で、危急の時には身を捨ててパーティーを救い、しかも法外な要求をしない……と結構ずくめの|完全なる兵士《パーフェクトソルジャー》を求めるが、そもそもそんなプレイヤーなら傭兵など生業にしているわけがないという事実にはなかなか思いが至らない。が、しかし「いざという時に逃げない」という点に関しては傭兵を必要とするようなパーティーであれば真っ先に考慮する条件であり、当然のことながら戦場から撤退するような傭兵は悪評を立てられて二度と仕事にありつけないことにもなる。先に「傭兵は信義と評判で喰っている」と言ったのはこれを指す。  ともあれ、経験値の分配率以外にも弾薬消費に関する細々とした取り決めや大物を仕留めた場合のボーナスの有無など全てが直接交渉による口約束であり、その契約の完全な履行を保証する組織など存在しないし、相互に下す評価にしてもプレイヤー間の噂や伝聞に基づかざるを得ないから当然のように揉め事は起こる。そういった揉め事の処理一切はプレイヤーたちの自主的判断と良識ある行動、すなわち自然発生的な掟と暴力に委ねられており、どこの端末でも緩やかな自治とでも呼ぶべきものが確立されていた。【アヴァロン】の管理者たちは、それが警察の介入を招くような事態でない限りプレイヤー間の揉め事に口を出さないが、同時に正規の業務内容以外にプレイヤーの便宜を図ることも一切行なわなかった。パーティー間のメンバーの貸し借り、新規メンバーの募集、傭兵との契約からパーティー内での経験値の分配に到るまで、全てプレイヤーが自己責任において行なうのが当然とされており、アクセス料金さえ支払えばアクセスを申請したパーティーの内実が問われることはない。戦場《フィールド》という舞台を管理し、これを支障なく運営するのが自らの役割であって、そこに至る過程と結果を含むどのような劇《ドラマ》を演じるかはプレイヤーに委ねられている、というのが彼らのポリシーだった。  もともと【アヴァロン】というゲームシステム自体が、実は驚くほど単純なルールによって支配されていた。 『プレイヤーは個人または集団の単位で任意に選択された戦場に接続し、戦闘を通じて倒した敵にあらかじめ定められた経験値を獲得する。個人または集団全員が死亡《デッド》判定されるか撤退を選択した場合、および戦域内の特定の標的が倒された場合にゲームは終了するが、定められた地点において任意に戦場との接続を断つことができる。但しいずれの場合も同地点において保存されなかったデータは累積された個人のデータに反映されない。  プレイヤーは任意に選択された【戦士《ファイター》】【魔導師《メイジ》】【司教《ビショップ》】【盗賊《シーフ》】の四つの階級に所属し、その所属する階級によって装備の制限を受けるが、獲得した経験値の累積が所定の値を越えた時点で与えられるポイントを任意のパラメータに累積することによりその能力を決定する。階級の変更は随時可能だが、その場合新たに選択された階級のパラメータは初期値に復帰する』  ——これだけだ。  その内容をよく吟味すれば、それが人間性への深い洞察に拠って巧妙に練り上げられたものであることが直ちに判明する。  たとえば獲得経験値は個人ではなく「接続した個人または集団の単位で」獲得するものと定められている。つまりパーティーが獲得した経験値はパーティーそのものに割り振られるのであって、この分配はシステムでなくパーティー自身の判断に委ねられるわけだが、その過程における戦闘で誰もが同等の戦果を上げるわけではないし、戦死者や逃亡者が出ることもある。その分配率についてはもちろん、ルールはそれを誰が決定するかについても何も記していない。通常はパーティーの主宰者でもある指揮者がこれを行なうが、そもそも主宰者や指揮者などという存在自体が便宜的に登場したものに過ぎない。このことがパーティーの宿命であり、永遠の課題とも言うべきメンバー間の不平や不満、嫉妬などの葛藤や軋轢を生み、造反から独立、分裂、果ては戦場《フィールド》での「|味方撃ち《パーティーアタック》」から解散に到るあらゆる厄介事の元凶となったことは間違いない。【階級《クラス》】についても同じようなことが言える。ルールはそのレベルアップについて「獲得した経験値の累積が所定の値を越えた時点で」としか述べていないが、レベルアップに必要な経験値はそれぞれのクラスで大きく異なる。|携行対戦車ミサイル《RPG》や榴弾発射器《グレネードランチャー》を扱う魔導師《メイジ》はパーティーの正面戦力を飛躍的に強化するために不可欠な存在だが、その成長は司教《ビショップ》ほどではないにせよかなり遅く、まともな戦力になるまでには膨大な経験値を必要とする。いきおい一人前になるまでパーティーで「大事に育てる」形にならざるを得ないが、これを嫌うパーティーは手っ取り早く他のパーティーからの引き抜きという手段を採りたがる。引き抜かれる側からすれば、貴重な経験値を割り振って育てあげた魔導師《メイジ》をあっさり持っていかれたのでは元も子もない。パーティー間の緊張が高まり、戦場での殺し合いから端末での乱闘に至り、果ては傷害事件や殺人にまでエスカレートした例も少なくない。引き抜きにまでは至らないにせよ、この種のパーティーの編成に関わる揉め事はそれこそ枚挙に暇がないが、その殆ど全てが「戦場に到る過程とその結果」をプレイヤー自身に委ねた【アヴァロン】の原則《ルール》に由来すると言っても過言ではないだろう。  俺はそれを悪意と呼び、試練とも言った。  そのいずれであるかは、それこそ永遠の謎だが、はっきり言えることは戦場《フィールド》が人を試みる場であることは虚実を問わないということだけだ。  その意味で【アヴァロン】こそ人間の作り出した究極の戦場《フィールド》と言えるのかもしれない。  回線状況を表示するディスプレイが明滅を始め、予備接続されていた夥しい数のパーティーの名の傍らに【ログイン】の青い文字が電光のように瞬く。接続サインに続いてそれぞれの接続先や編成、戦闘形式などのデータが目の覚めるような処理速度でスクロールし、雪崩のようにディスプレイの表面を埋め尽くしていった。  それはかつてこの世界が経験した大量空輸時代に空港に設置されていた航空便の発着表示盤を連想させた。いまこの瞬間に様々な思惑を秘めたパーティーが続々と戦場に旅立っていくさまは、それを連日のように目にしている俺にとってもその度に胸を高鳴らせる光景だった。そこかしこに座り込んでいた俺と同じ客待ちの傭兵たちが腰を上げ、先程までざわめいていたプレイヤーたちも口を閉ざして巨大なディスプレイの告知を見上げていた。  |この世ならざる土地《アンヌウフン》で夜毎に繰り返される|騎士の狩り《ワイルドハント》——。  アーサーの伝説に準えてそんな言葉を思い浮かべていた俺は、肩を叩かれて振り向いたその先にガーランドのニヤけた髭面を見出して少し慌てた。 「感傷に耽るのもいいが、ぼんやりしてると仕事にあぶれちまうぜ」  俺は胸の内を見透かされた気恥ずかしさを苦笑で覆い隠して軽口を返した。 「安売りしない主義なんだ、口開けの客にロクな奴はいないからな」 「ああそうかい。そりゃ残念だな」と大袈裟に肩を竦めてみせながら勿体ぶってつづけた。 「いい客を紹介してやろうと思ったんだが」  おい本当か、と表情を変えた俺に今度はガーランドが慌てた。 「いや、思ったんだが……実はもう埋まっちまったんだ」 「なるほど、いまこうして俺とお前が無駄話をしてる間にどこかの髭面の野郎がさっさと話を決めちまった。そういうことなんだろ」 「済まん。かつぐつもりはなかったんだが、実はそうなんだ」  両手を顔の前で合わせる。  髭面の大男がそうやって神妙にしている姿が妙に可笑しかった。こういう素直さは人間関係に難ありの多い傭兵《マークス》の中では貴重品と言っていい。 「気にするなよガーランド。冗談だ」  それほど気色ばんだつもりはなかったが、この大男は心底ほっとしたらしい。 「お前、怒らせると何をやらかすか判らんからな」 「俺がか」  俺は自分をキレやすい人間だとか凶暴性があるなどと考えたことはなかったので、ガーランドのような男にそう思われていたことが意外だった。いや、あるいはガーランドのような男だからこそ、俺自身の気がつかない側面を見ていたのかもしれない。 「それにな」とガーランドが髭面を寄せて囁いた。 「こう言っちゃなんだが……妙な客なんだ」  そう言って肩越しに促した視線の先に、ディスプレイを見上げているプレイヤーたちの群れから距離を置いて、壁に背を預けて煙草を吸っている女がいた。  黒い短髪《ボブ》が妙に目立つのは、その髪に混じった幾筋かの銀髪との対照がそう思わせるのかもしれない。薄いフレームの眼鏡を掛けていたが、その下に窺える目が恐ろしく印象的だった。  どこの国のものとも知れぬ男ものの軍用コートを着ている。 「外人か……美人だな」 「ああ、言葉は達者だがな」  なぜか俺の感想の後半部分に関する言及を慎重に避けてガーランドが答えた。  外国人はこの街では珍しくない。前世紀末から始まったこの国への人口の流入は、世界的な不況によって各国が門戸を閉じ始めるまでの間に多くの定住者をこの街に生んだ。この端末に通う連中の半分近くは異なる肌と瞳を持っているし、そんなことを気に掛ける者もいない。現にこのガーランドにしてからが、生まれた時からこの国の国籍を有する米国系市民という奴だった。 「あの女のどこが妙なんだ」 「お前、傭兵だけで編成したパーティーなんて聞いたことがあるか」  ガーランドが困惑としか形容しようのない表情を浮かべて言った。 「傭兵だけって、全員か」 「G3のコガは知ってるな。それにMAGの林《リン》と俺、あの女自身を含めて四人だ。分配率は一人三〇パーセントだが林にはさらに五パーセントの割増。もちろんアクセス料は向こう持ちだ」  傭兵の経験値分配率は平均的な六人編成の場合で良くても二〇パーセントだから、これは破格と言える。いやそれ以前の問題として、ガーランドの言い分を信じるなら女の取り分は五パーセントにしかならないが、それでは四人分のアクセス料金も出ないし、そもそも何のために傭兵《マークス》を雇うのか判らなくなる。 「何者なんだ、あの女」 「質問はなし、が条件だそうだ」 「IDはチェックしたのか」 「それもなしだ……な、どう思う」  この男が俺に話しかけたのは、初めからそれが目的だったのかもしれない。  考えられる可能性はそう多くはなかった。  ひとつは【アヴァロン】に関するルポを書きたがっている雑誌記者やフリーの物書きが護衛として雇うケースで、確かにそんな人間がクラスAの戦場《フィールド》にアクセスなどしようものなら三〇秒と生きてはいられないに違いない。だいぶ前のことになるがそんな笑い話を聞いたこともある。だがそうした読み物が人々の興味を呼ばなくなってすでに久しいし、一時期もてはやされた【アヴァロン】出身のライターたちも、その殆どが失職して端末に出戻るか配食所に並んでいる御時世だ。それに——これは俺の勘に過ぎないが、あの女が持つ雰囲気はジャーナリストのそれとは明らかに異質だし、少なくとも護衛を必要とする種類の人間とは思えない。もうひとつは新規に参入するパーティーが採算を無視してガイドとして雇うケースだが、これは自前のパーティーを引き連れてこなければ何の意味もないし戦闘が目的ではないから雇うにしても一人で充分な筈だった。 「プレイヤーキラーか」  俺は最後の可能性を口にした。  プレイヤーの装備は当人が死亡《デッド》判定された場合は戦場《フィールド》から消滅して個人データに自動復帰するが、負傷やその他の理由で放棄した場合には可処分データとして扱われる。装備の購入には多大な経験値を必要とするから、これを回収して戻るのもパーティーの重要な任務となるし、他のパーティーが持ち帰ることも可能だ。【アヴァロン】のルールは「同一戦域内の他のパーティーを攻撃してはならない」とも「その装備を奪ってはならない」とも記していないから、戦場《フィールド》における掠奪行為——他人の装備を奪うための戦闘が生起することは必然だったと言えるし、これを専らとするパーティーであるプレイヤーキラーが登場するであろうこともかなり早い時期から予想されていた。装備に関するこの原則はもちろん敵にも適用されるが、彼らの装備は現実同様に格安のAKか、良くてもRPD止まりなので「倒れているが死亡判定されず消滅していない敵」に接近する無謀なプレイヤーは滅多にいない。  ちなみに他のパーティーを待ち伏せてこれを襲い、その装備を奪って経験値に換える連中を【|膝撃ち屋《ニーシューター》】と呼ぶのは、システムの死亡判定をかわすために彼らが選んだ射撃方法に由来する。現実の世界でも膝撃ちは相手を確実に肢体不自由者にする手段として忌み嫌われるが、プレイヤーたちもこれを蛇蠍の如く憎んだ。フィールドで装備を奪われて激痛にのたうつプレイヤーは、敵に虐殺されるのを待つかリセットを選ぶかしかないからだ。  だがプレイヤーキラーは必ずと言って良いほどパーティーで行動する——とガーランドはあっさりとその可能性を否定してつづけた。 「あの女がどんな凄腕だったとしてもだ、俺たち三人を向こうに回して死なないように無力化するなんて真似ができると思うか」  まあベッドの上でなら別かもしれんが、と補足して例の擦れた声で笑った。 「それに連中は同じ端末で仕事《ゴト》を仕掛けたりしない。面が割れればフクロ叩きじゃ済まんからな」 「フィールドで仲間が待ち伏せって可能性もある」 「にしてもだ……よりにもよってなぜ俺たちを選ぶんだ。林のMAGはともかく、俺のM1やコガのG3を売り飛ばしたってたかが知れてるぜ」  それはその通りだった。  G3は旧西ドイツ軍の制式ライフルトライアルで俺のFN—FALやSIGのSG510を蹴落として採用されたローラーロッキングシステムの名銃だが、【アヴァロン】ではFALと同じく30口径というハイパワーが敬遠されて傭兵以外に人気がない。M1に到ってはそれが現物なら目の玉が飛び出るようなプレミアがつくだろうが、データとしてのそれを評価するとすれば——ガーランドは傷つくだろうがハイパワーだけが取り柄の半自動小銃であってAK以下の値打ちしかない。 「他の二人はどう言ってるんだ」 「林はMAGを撃ちまくれれば何でもいい男だし、コガはあの通り普段でも何を考えてるか判らんやつだからな」  肩を竦めてみせるその仕草はさすがに様になっていたが、俺は結論の出ない話をつづけることが面倒になりかけていた。 「胡散臭い話であることは確かなんだ。ヤバいと思うならやめればいい」 「それはそうなんだが……」  この男にしては珍しくはっきりしないものの言い方だった。 「どうした」 「何があるのか興味があるだろ。もう予備接続《エントリー》に登録しちまったんだ」  俺は呆れてガーランドの顔を見つめた。  髭に埋もれた顔の中で目がキラキラと輝いていた。  要するにこの男はこれから始まる愉しい冒険について誰かと話をし、その期待感を共有したかっただけなのだ。  上級者になるほど無表情になり、良くて修行僧、悪ければ無感動《スカルフエイス》な殺し屋にしか成り得ないプレイヤーの世界も、この男にとっては依然として心躍る冒険の世界でありつづけているのかもしれない。その意味では彼こそが真のプレイヤー、冒険者なのかもしれない。  ミスター|30—0 6《サーティ ゼロシックス》、とよく通る声で女がガーランドを呼んでいた。 「時間よ《イッツタイム》」  ガーランドの肩越しに女が俺を見つめていた。  水のように冴えた瞳だった。  俺はぼんやりと|運命の女《ファムファタール》という言葉を思い浮かべた。  もちろん、この女が文字通り俺の運命を大きく変えることになるなどということは、この時はまだ知る由もなかったのだが——。  先生に付き添われて教室に戻る悪戯小僧といった風情のガーランドが立ち去り、俺の指定席である送風ダクトに腰を下ろした途端に今度は見知らぬ男が話し掛けてきた。 「失礼だが」と男は言った。 「仕事を頼めないだろうか」  髪を短く刈り上げ、シャツのボタンを喉元まできっちりと嵌めた中年男だった。  俺は例の【親衛戦車連隊】のようなコスプレは大嫌いだが、こういった意識しない几帳面さが滲み出るタイプも苦手だった。  だが仕事となれば話は別だ。 「分配率は二〇パーセント。正規歩兵《トルーパー》以上の敵を俺が倒した場合はその四〇パーセントをボーナスとして貰う。タマ代は俺持ち、アクセス料はそちら持ち。これ以下の条件ならお断りだ」  俺はいつものように手短かに条件を告げた。駆け引きは苦手というより時間の無駄と考えていた。どうせ雇う奴は雇うし、冷やかしにつき合う義理はない。 「それだけかね」と男は言葉を返した。  別に怒っているわけでも驚いているわけでもなさそうだった。 「こちらのことは何も訊かなくていいのか」 「フィールドに立てば嫌でも判るさ」  それは半分だけは真実だった。  戦闘における選択肢は多いほどいいが、生き方の選択は配食所のメニューと同じように単純な方が迷わなくていい。 「結構だ。お願いしよう」  この中年男も似たような信条の持ち主らしく、メンバーを紹介すると言って背を向けるとさっさと歩き出した。  中年男が近づくと床に座り込んでいた五人組が起ちあがって整列し、一斉に頭を下げた。  全員が中年男同様に髪を刈り上げてボタンを一番上まで嵌めていた。 「犬頭族《ドッグズヘッズ》と名乗らせて貰っている」  今度は全員が俺に向かって無言で頭を下げ、恭順の意思を示した。  |訓練された犬《シェーファーフント》のような連中だった。   2 【犬頭族《ドッグズヘッズ》】は風変わりなパーティーだった。  指揮者の中年男は簡潔な会話を好む男だったが、その部下とも言うべき五人組に到ってはまるで沈黙の誓いを立てた修道僧のように無口な連中だった。  だが何より俺の関心を引いたのは、このパーティーの編成と装備だった。 【犬頭族】は指揮者である中年男を含めた六人全員が戦士階級《ファイタークラス》で編成されていた。  通常、パーティーなるものは様々な作戦《ミッション》にフレキシブルに対応できるように、情報分析能力に秀でた司教《ビショップ》を指揮者《アルファ》として正面戦力である戦士《ファイター》、索敵や罠の解除を専門とする盗賊《シーフ》、強力な火器を装備する魔導師《メイジ》の四階級をそのレベルを考慮してバランスよく編成するのが常道とされている。  理屈はそうでも、いざ編成するとなるとこれが意外に難しい。 【アヴァロン】のルールには「個人または集団を単位として」と記されているだけで、集団を構成する人数の上限については何も書かれていないから、事実上パーティーの人数は無制限と考えられる。がしかし、人数を増やせば戦力としては強力となるが頭割りにする経験値はこれに比例して目減りしてゆき、レベルアップどころかアクセス料を稼ぐことすら危なくなる。この収支を考慮すると現実的には六人程度が目安となるし、実際ほとんどのパーティーは五、六人程度で編成されていた。この六人の枠内で先の四階級を全て充当すると、一人でも多く欲しい戦士《ファイター》は半分の三人となるが、これに魔導師《メイジ》を加えてもいざ戦闘になれば純粋に戦力と呼び得るのは四人に過ぎず、装備の重量制限によって短機関銃以上の火器を扱えない司教《ビショップ》や盗賊《シーフ》は良くてお荷物、下手をすれば護衛の対象にしかならない。だからと言って盗賊《シーフ》を省略すれば敵の奇襲を許す可能性が一気に増大するし、実際に対人地雷に引っ掛かって壊滅したパーティーも少なくなかった。司教《ビショップ》の必要性に関しては諸説あるが——実は俺も強硬な無用論者の一人なのだが、集団が生き残るためには優秀な指揮者が不可欠だという原則が今も大勢を占めていた。しかし実際に戦場《フィールド》で敵と対峙すればたちどころに判明することだが、正面戦力としての戦士《ファイター》ほど頼りになる者はなく、これが一人倒れ二人傷ついていけばそのパーティーを待つのは壊滅か撤退《リセット》だけだ。予備戦力による増援も段列による補給も存在しない【アヴァロン】の戦場《フィールド》においてはアクセスした時の戦力が全てであり、「戦力を立て直す」などという言葉は愚かな精神主義的修辞以上のものではないから編成時に一人でも多くの戦士が欲しい。  パーティーの理想と現実をめぐるこの永遠の課題は、その現実的要請ゆえにプレイヤーたちの様々な試行を促した。  例えば正面戦力四名の枠はこれを遵守しつつ、内実としての戦力強化を目指して魔導師《メイジ》を二名にする試みは最も早期に試みられ、そして破綻した。先にも触れた通り、魔導師《メイジ》は成長が遅いだけでなく装備の維持にも膨大な経験値を必要とするので収支の面からすると最もリスクの大きい階級であり、どれほど稼ぎのいいパーティーであっても一人を養うのが精一杯であることが判明したからだった。それどころかこれを常時戦力化しておくことの可能なパーティーすら滅多になく、複数パーティー間の契約に基づく共有や傭兵化の傾向が顕著なのがこの階級の現状だった。  いまでも場末の呑み屋周辺で「魔導師《メイジ》三乃至四名編成による対機甲戦特化構想」などという駄法螺《ファンタジー》を吹き上げているバカがいるが、もちろん誰も相手にしない。その名前が連想させるロマンチックな印象とは裏腹に、魔導師《メイジ》という階級は露骨な経済原則によって規定される存在なのだ。戦士《ファイター》にMAGやMGを持たせて実質的に魔導師《メイジ》並みに戦力化しようとする試みも、凄まじい弾薬消費量がパーティーの懐を直撃して同様に挫折した。  結局のところ枠内での戦力強化はそれが階級の構成であれ装備の強化であれ、獲得経験値の一般的上限という厳しい枷の中では実現することが難しく、重量制限の隙間を狙って盗賊《シーフ》や司教《ビショップ》にAKSのような短小化した突撃銃を装備させ、これを戦力化する程度のことに現実的な着地点を見出すのが妥当なところだった。これが枠そのものへの挑戦ということになると——。  極めつけに笑える話がある。  ある物好きな司教《ビショップ》が【アヴァロン】のルールの裏をかいてシステムに一泡吹かせようと考えた。彼はパーティーの人員に上限がないことに目をつけ、パーティーの主宰者たちに話を持ちかけ、これを説得して百数十人の巨大なパーティーを編成したのだ。無論これだけのパーティーを組んでしまえばたとえフラグを墜としたとしても頭割りの経験値は雀の涙だが、一泡吹かせること自体が目的だからこれは問題にならない。ルールに照らして何ら資格に欠けるところのないこの巨大なパーティーを【アヴァロン】の管理者たちは受け入れざるを得ず、複数の端末《ターミナル》に分散してこれをシステムに接続した。  この話の結末がどうなったか、想像がつくだろうか。  百数十人の戦士《ファイター》、魔導師《メイジ》、盗賊《シーフ》、司教《ビショップ》の大集団——一個中隊規模の戦闘部隊を従えて意気揚揚と戦場《フィールド》に乗り込んだ彼を待ち受けていたのは、戦車二個小隊を含む増強一個歩兵大隊の敵だった。【アヴァロン】のルールには、敵の戦力規模が常に同じであるなどとは一言も記されていないことを思い出すのが遅すぎた。  後は語るまでもない。  圧倒的な火力の前に膨大な戦死者と撤退者を出してこの巨大パーティーは壊滅し、彼が言うところの「【アヴァロン】の歴史に残る壮挙」はあえなく挫折した。主宰者である司教《ビショップ》は凄惨なリンチを受けた末に放逐され、「大遠征」と称されたこの試みを繰り返す物好きは二度と現われなかった。  繰り返しになるが、一見すると簡素で自由度に溢れた【アヴァロン】のルールは実は恐ろしく巧妙に仕組まれたものであって、この裏をかくなどという芸当は不可能だと言っても過言ではない。所詮は精緻に組まれたバランスの枷の中で戦技そのものを競うゲームなのであって、システムそのものを出し抜こうなどという試みは、お釈迦様の掌から飛び出そうとした猿の企てにも似た空しい努力なのだ。  というところでようやく戦士《ファイター》だけのパーティーの話になるわけだが——パーティーの編成をめぐる試行のほとんどが挫折を繰り返し、あらゆる可能性が語られ尽くした中にあって比較的まともに検討されつづけたのが「戦士《ファイター》によるパーティーの純血化」だった。  元来、戦士《ファイター》は【アヴァロン】の標準的な階級であって、良くも悪くも戦闘に必要な全ての技能をバランスよく備えていた。逆の言い方をするなら、装備に上限のある魔導師《メイジ》、そこそこの索敵能力を持つ盗賊《シーフ》、指揮能力にやや見劣りのする司教《ビショップ》が戦士《ファイター》であるとも言える。  レベルアップ時に不足となる能力の基礎パラメータにポイントを充当し、さらに装備の多様性によってこれを補完していけば、構成員の全戦力化という理想に矛盾することなく、指揮、索敵、重火力等に特化した戦士《ファイター》の集団を編成することが可能だ——とする説にそれなりの説得力があることは確かだったが、現実に「戦士《ファイター》のパーティー」なるものが登場していない最大の理由もまた、皮肉なことにこの【戦士《ファイター》】という階級独自の性格に拠っていた。 【アヴァロン】のプレイヤーに共通する心理に超人願望があることは言うまでもないだろう。そして超人願望なるものにとり憑かれる人間の多くは原則的に個人主義者であり、戦士《ファイター》階級に所属する者には特にこの傾向が著しかった。そして指揮者としてしか機能しない司教《ビショップ》やパーティーのバックアップなしには装備の維持すら困難な魔導師《メイジ》、パーティーの存在そのものを前提しなければ何の意味も持たない技能に特化された盗賊《シーフ》——これらの階級がパーティーという集団に寄せる帰属意識と、平均的な技能を併せ持つが故に自律的な存在たり得る戦士《ファイター》のそれとの間には当初から微妙なニュアンスの違いがあった。  戦士階級《ファイタークラス》に特有の二つの傾向、わけても帰属意識の薄弱さは上級者になるにつれてより顕著になる傾向があり、「レベルアップすることでより強力なパーティーを目指す者」と「レベルアップするためにより強力なパーティーを望む者」との間に存在した微妙な差異をやがては決定的な乖離へと導いていく。この辺の事情はそれが階級を混じえた通常のパーティーであろうが「戦士《ファイター》のパーティー」であろうが全く変わらない。  戦士《ファイター》階級に固有な全方位的成長の可能性が集団の階級的純化による全戦力化という展望を示しつつ、一方で同じ戦士《ファイター》階級に固有の心理的特性がこれを阻害する——なんなら、集団は多様性を内包するが故に求心力を持ちこれを純化する理想によって崩壊するという一般則に読み替えても構わないが、俺に言わせれば人間という得手勝手な生き物が集団によって理想を追うこと自体に無理があるのだ。  過去現在を通じて「戦士《ファイター》のパーティー」なる結構なものが存在したという話は寡聞にして聞いたことが無い。 「うちの交戦規定は簡単だ」と指揮者の中年男は接続前の|打ち合わせ《ブリーフィング》で、それこそあっさりと俺に言い放った。 「誰も逃げない、全員で戦い、全員で生還する、ザコは相手にしない……何か質問はあるかね」  確かに簡単だった。その通りに行動できる人間がいれば、だ。 「逃げる奴がいたらどうするんだ」と訊くと「俺が殺す」と答えた。  俺は半ば感心し半ばは呆れながら、もうひとつ質問した。 「で、俺は何をしたらいいんだ」  犬と散歩してるだけでいいのか、とつづけたかったが相手が冗談のもっとも通じ難いタイプであることを思い出してやめた。 「撤退《リセット》時の殿を頼みたい。それまでは……自分の身を守っていてくれるだけで結構だ」  ガーランドあたりが聞いたら逆上しそうな台詞だったが、顧客の意に沿うのが俺の営業方針なので黙って肯いた。  その時は六人も戦士《ファイター》を揃えたパーティーがなぜ傭兵《マークス》を雇うのか不思議だったが、こうして戦場《フィールド》に接続して作戦《ミッション》を開始してみると、さらに謎は深まる一方だった。  六人の戦士《ファイター》たちが装備している火器はこれも揃って同じ、TH64だった。  俺にはこれが納得できなかった。  なぜTH64なのか。  そしてもうひとつ、なぜ全員がTH64なのか。  TH64。  かつてこの国に存在した「専守防衛」という奇妙な原則を持つ軍隊が制式化したセレクティブファイア可能な30口径ライフルで、正式には64式小銃という名称だったらしいが【アヴァロン】ではTH《タイプホウワ》64と呼んでいる。この小銃はガスオペレーティングシステムとティルトボルトによるロッキングシステムを組み込んだ、そう言ってよければ当時の標準的な性能をクリアした自動小銃のひとつだった。重量は装弾した弾倉込みで五キロを越え、 自動小銃の小口径化が進み始めた当時にあっては重い方に属するし、重量制限の厳しい【アヴァロン】で不利なのは俺のFALと同じだが人気の点ではFAL以下だった。  その理由は二つある。  ひとつはTH64が使用する弾薬が、これまたFALと同じ308NATO弾だったことだ。そもそもこの308NATO弾なるものは当時これを制式化していた米軍がNATOにもその制式化をゴリ押ししたいわくつきのシロモノで、強力なのは結構なのだが全自動でこれを撃った場合に銃を制御することがゴリラ以外には不可能なほど強力だったことが大問題だった。その結果は明白で、戦後いちはやく小口径高速弾の採用によってAKを開発し、突撃銃の標準化に先鞭をつけた当時の東側《ワルシャワパクト》に対し、コガのG3や俺のFALのような「全自動射撃可能な中口径高性能ライフル」を生産したNATO陣営は本格的な突撃銃を量産するまでに実に三〇年近い迂回を経ることになったのだ。ちなみにG3は小口径にスケールダウンされたHK33として生まれ変わったが、FALの方はこれをL1A1として制式化した英軍がそうであるように、制御不能な全自動射撃機構を省略して普及することになる。別に308NATO弾の罪ではないのだが、銃の開発にとって弾薬の選定がいかに重要であるかという重大な教訓を残したタマとして後世に記憶されることになった次第だ。で、問題はここからなのだが——実はTH64は308NATO弾と全く同型の弾薬を使用するように設計されてはいるのだが、現実に支給された弾薬はこの国の人間の肉体的条件を考慮して発射薬を減量した減装弾だったのだ。TH64のレシーバーは量産に適したプレス工法でなく、これまたFALと同じ削り出し加工によって製造されている。この方式は大量の弾丸を発射しても変形が少なく耐久性が高いことで評価されているのだが、プレス工法を多用して量産効果を高めた同口径のG3に比べれば価格的には高価とならざるを得ない。フルロードの308を使用した実績がなく、しかも高価なTH64は30口径を愛用することの多い傭兵《マークス》たちの間でも、その費用対効果の面で疑問を持つ者が少なくない。  TH64に人気のないもうひとつの理由は、要するに軍用銃に必要とされる「戦場《フィールド》における実績」が存在しない点にあった。TH64の公表データによれば、その性能は全・半自動双方において高い命中精度を持ち、特に半自動による遠射性能の良さを強調しているが、そんな御題目《カタログデータ》を信じる善人は現実の兵士はもちろん【アヴァロン】のプレイヤーにも存在しない。軍用銃というものは様々な環境における過酷な使用状況、つまり戦場《フィールド》の洗礼を受けて初めて信頼を獲得するものなのだが、TH64はこれを制式化した軍が「専守防衛」という特殊な理念に基づく特殊な軍隊であっただけでなく、当時のこの国が武器の輸出を禁止していた事情もあって実戦に参加したことはただの一度もない所謂「幻の名銃」だった。【アヴァロン】が可能な限り現実の戦闘を模したゲームであり、その重要なアイテムである銃器の設定に際して入手可能なあらゆるデータを参照したことは先にも触れたと思うが、この類の「幻の名銃」に関してどのような評価を下したかは実はよく判っていない。現実においても虚構においても評価の定まらぬTH64がプレイヤーたちに敬遠されたのはこういった事情による。  余談ながらTH64も小口径高速弾という当時の世界の趨勢に従って国産の223口径を使用するTH89に更新され、余剰銃が例の武器禁輸の原則に従って全て廃棄処分された関係もあって、その現品がもし存在するなら銃器マニアの間で凄まじいプレミアがつくだろうと言われている。 【犬頭族《ドッグズヘッズ》】は中年男の言った交戦規定通り、他のパーティーと正規歩兵《トルーパー》たちの小競り合いを避けるように慎重に進んでいた。  中年男の指揮は淡々としたもので、手信号《サイン》のみで五人組を自在に動かす様はボーダーコリーを操る羊飼いのようだったが、奴が何を目論んでいるのかは後衛についた俺には皆目判らなかった。  市街地を外れ、表通りがそのまま石組みの橋に繋がる辺りに先頭が到着すると中年男が集合を命じた。軍神の彫像を施した欄干が波のように左右に連なり、向こう岸の街が霞んで見える長大な架橋だった。全員の集合を確認した中年男が橋に一歩踏み込むと、世界《マップ》が切り替わる。  襲いかかる津波のように橋が前方から消失し、彼方の市街が、そして空が剥がれ落ちるように消え——世界が消失した。  一瞬の意識の中断の後に俺たちは【荒野《ウエイストランド》】に立っていた。  プレイヤーたちが荒野と呼ぶこの土地は、緩やかな起伏を描く褐色の大地に叢や針葉樹の小さな森が散見できるだけで、あとは永遠に到達できない地平線と陰鬱な色彩を帯びた黄昏の空が茫漠と広がっているだけの見捨てられた土地だった。しかしそれはあくまで見かけだけであって、実際には点在する戦場《フィールド》を繋ぐいわば緩衝地帯であり、厳密には戦場《フィールド》と言うより【アヴァロン】のシステム空間に近い場所だった。地形に表示されない接点によって全てのクラスの戦場《フィールド》にアクセスが可能な、いわば概念地形《ワールドマップ》でありながら戦場《フィールド》でのあらゆるルールが有効で、敵との遭遇《エンカウント》も生起する。 【アヴァロン】の開発者たちが何故こんな空間を設定したのかは例によって謎とされていたが、プレイヤーにとっては戦車や攻撃ヘリが遊弋する極めつけの危険地域でもあり、一度踏み込んだら二度と戻れない無限ループの地形データで構成された|禁断の土地《フォアビドゥンワールド》だった。俺も数回踏み込んだことがあるがセーブポイントを発見する前にたちまち方位を見失い、惨めに退散するしかなかった。  中年男が右手を軽く振って方位を示す。  五人組がその示す方向へ縦隊を組んで歩き出し、中年男がこれにつづいた。  俺は背後を振り返ってみたが、もちろん先刻まで接続していた市街など幻のように消え失せていて跡形もなく、茫漠たる荒地が広がっているだけだった。この地に踏み込んだ瞬間に強制的に移動《マラー》させられているから、どこが接触点なのかも判らない。  俺は太い息を吐き出すとFALを肩に担ぎあげ、中年男がセーブポイントの所在を知っていることを信じてその後を追った。  うんざりするほど単調な地形だった。  小さな丘を越えて振り向くとそこはすでに何度も踏破した地形に変化していて、ここが巧妙にループされた空間であることをあからさまに示していた。  中年男は何度か立ち止まって方向を確かめるように周囲を見渡し、縦隊はその度に新たに示された方位へ向けて進路を修正した。五人組は教本通り視界を分担して対空警戒にあたっていたが、こんな遮蔽物のない地形で攻撃ヘリに遭遇しようものなら全滅は避けられない。爆音が響き、雲間に鴉のようなシルエットが出現したときがこのパーティーの命運の尽きるときだ。  が、警戒飛行中の攻撃ヘリや巡航する戦車に遭遇することもなく一行は目的地に辿り着くことができた。  それが僥倖であったのかどうかは判らない。  何故なら、俺はこれまでの経過で中年男とこのパーティーの作戦におおよその見当をつけていたからだ。  そこは裾野から緩やかな斜面が這い上がるようにして形作られた半弓状の小さな丘陵だった。斜面を登りつめると反対側は大きく抉られた崖になっていて、その底に黄昏の空を映した鏡のような湖面が望めた。  五人組が休む間もなく散開すると、湖を囲むようにほぼ等間隔の射撃位置でTH64の二脚を開いて伏射の態勢に就く。  中年男も適当な射撃位置を選んで二脚を開き、膝をついて腰のパウチから抜き出した二〇連の予備弾倉を傍らに並べ始めた。 「荒野に大物の湧出地があるって噂は本当だったんだな。何が湧いて出てくるんだ」  俺は中年男の傍らに腰を下ろしながら訊いた。 「さて」と腕時計を見ていた中年男が惚けたように呟き、TH64の銃床を肩に引き寄せながら答えた。 「半自動のFALで墜とせるかどうか、試してみるかね」  もちろんそのつもりさ、と答えて俺は中年男の排莢を避けて左側に移動し、同じく伏射姿勢に入った。  予備弾倉は準備しなかった。  二〇連の308を半自動で撃ち尽くして、さらに射撃の余裕があるとは思えなかったからだ。  俺は横目で中年男を見ながら、おおよその狙点《ポイント》を湖面中央の上方五メートル程に定めて銃把を握った右手の親指でFALのセフティレバーを押し上げた。  FALの特徴のひとつはセフティレバーやマガジンキャッチ、ボルトリリースなどのポジションが理想的に配置されていて、操作性が抜群にいいことだった。これは各国がFALを採用した理由のひとつで、この他にもコッキングハンドル・ノブを右手で銃把を握ったまま扱える左側に配置してこれをボルトキャリアに連動させずに独立させるアイディアや頬付けしやすい銃床の形状など、とにかく射撃に関わるあらゆる操作の容易さを追求した銃がFALであり、小口径突撃銃登場以前には欧州歩兵ライフルの典型と呼ばれて308NATO採用の歩兵ライフルの中では最もポピュラーなモデルだったこともある。  周囲の物音がゆっくりと遠去かり、湖面に映る空が急速にその彩度《サティキュラ》を低下させる。この区画の映像表示処理に強力な負荷が懸かり始めていた。その表示に重い処理を必要とするオブジェクトが出現する兆しだった。  湖面が大きく歪み、その上空に湧出した夥しい数のポリゴンが周囲のテクスチャを微細に反射させながら【大鴉《ブラン》】を生み出し始めていた。 【終端標的《フラグ》】と呼ばれる終端兵器の湧出を目撃したプレイヤーは俺の知る限りほとんどいない。俺は目の前に巨大な攻撃ヘリコプターを出現させるシステムの底力を見せつけられ、畏怖にも似た感情に圧倒されてその荘厳な光景を見つめていた。  ウェールズ語、アイルランド語でともに大鴉を意味する「ブラン」は、アーサーが死後にその魂を宿した鳥として知られているが、【アヴァロン】ではその撃破が作戦終了の必要条件である終端標的——攻撃ヘリMi—24ハインドをその名で呼んでいた。  ハインドは前世紀に崩壊したワルシャワパクトの標準的な地上攻撃用ヘリコプターで、機体の重要部にはチタニウム、コクピット周辺には鋼鉄まで使用する徹底した重装甲と信頼性の高い駆動システムによって「世界一頑丈な攻撃ヘリ」として知られていた。もともとは巨大な機体内に完全武装の歩兵一個分隊を搭載した強襲用の装甲兵員輸送ヘリとして設計されていたが、後に純然たる攻撃ヘリコプターとして運用されるようになり、その武装も地上制圧用の50口径ガトリング機銃と対地ロケット弾ポッド4基、対戦車ミサイル4発と強力なものだった。強襲、地上制圧はもちろん、その大きな積載能力《ペイロード》を生かして爆撃、地雷散布に到るまで何でもこなす一種の万能機であり、多くの派生型や輸出仕様機が生産された傑作機だった。また意外に知られていないが、ハインドはその巨大な機体からは想像できないほど素早く、海面高度での速度はAH—64を凌ぎ、国際航空連盟公認の二つの速度記録を持っている。公表データの最大速度320キロは同世代の攻撃ヘリの中ではトップクラスで、次世代の登場以前にこれを凌ぐ速度を記録した機体は、試作に終わったAH—56シャイアンやXH—51のようにローター以外にプロペラやジェットエンジンを搭載した複合へリだけだった。  携行火器の装備しか許されない【アヴァロン】のプレイヤーにとって、この【大鴉《ブラン》】を墜とすことがいかに困難であるかは想像に難くない。僅かにこれに対処し得るのは魔導師《メイジ》の装備する|携行対空ミサイル《スティンガー》だけだが、これとて高い建造物の多い市街地から上空を高速擦過してゆく攻撃ヘリを捕捉することは難しく、当たるかどうかも判らない一撃のために溜息の出るような経験値をブチ込んでこんな装備を運用するくらいなら、地上制圧のために低空に舞い降りた大鴉に対して掃射されるリスクを犯してRPGの直撃を狙った方が遥かにマシだった。とは言え、その直撃ですらよほど脆弱な部分に命中しなければ効果はなく、不死身のタフネスを誇る鋼鉄のカラスは呆気なく飛び去ってしまう。  アーサーの生まれ変わりを墜とすためには凄まじい地上掃射に身を曝す勇気と、それを上回る幸運が必要だった。  だがこれだけの困難を承知していながら、なお根拠のない幸運を信じて無謀な突撃を繰り返すパーティーが後を絶たないのは何故かといえば、重戦車やガンシップといった他のフラグの撃破とは異なり、大鴉を墜とすことには格別の意味があったからだった。もちろん一度墜とせば全員のレベルアップと装備の一新を果たした上に闇市で豪遊してもなおオツリがくるくらいの獲得経験値は魅力だが、なにより作戦終了《ミッションコンプリート》の輝く文字を中空に浮かべることは大鴉《ブラン》の撃墜のみによって可能であり、これこそ【アヴァロン】の開発者たちが試練を乗り越えたプレイヤーに与える最高の栄誉だったからだ。 【アヴァロン】をゲームとしてしか捉えない人間にとってみれば、所詮それは身の安全を保障されたゲームのもたらす名誉であり、賞金の獲得を表示する意味しかないのだろう。  だが【アヴァロン】の中に生きる者たちにとっては、違うのだ。  そしてそれは俺のような擦れっからしの傭兵《マークス》であっても変わらない。  大鴉が実体化を終えた瞬間、クリモフガスタービンエンジンの咆哮が噴き上げてきた。  眼下に浮揚してくる大鴉の巨体を臨む俺たちの射撃位置は狙撃には絶好の場所だったが、まだ誰も発砲しない。五翔の回転翼《ローター》の描く円弧がその巨体を覆っているからだ。その翼《ブレード》は不銹鋼《ステンレス》やFRPを積層させた複合材製で抜群の対弾性を誇っているし、その取り付け位置にあるチタニウム製のローターヘッドや各種のヒンジは20ミリ機銃弾の直撃に耐える強度を有している。深い俯角で撃ちかけても弾き飛ばされるだけで有効弾を得ることはできない。かと言って頭上に舞い上がられてしまえば地上からの砲火に曝される腹には念入りに装甲が施されているし、今度は機首のガトリング機銃が猛威を振るうことになる。上昇してくる大鴉に有効弾を撃ち込むチャンスはほんの一瞬でしかない筈だった。  が、半円形に広がった射点の中央、高度差二〇距離五〇ほどの地点で大鴉は水平飛行へ移行するために上昇を緩めてその長大な尾をこちらへ向けて大きく振った。  一斉に発砲が始まった。  狙いは俺の想像していた通り、大鴉の唯一の弱点である尻尾だった。  この形式のヘリコプターは長い支柱の先に取り付けたテイルローターの推力で回転翼の生み出すトルクを制御しているから、これを破壊されればバランスを失ってたちまち制御不能に陥る。もちろんこの弱点は設計者も熟知しているからローターの対弾性の強化に務めているが、これに連なるシャフトを収めた長大な尾部全体に装甲を施すことは不可能だった。この弱点を克服するために後に続く軍用ヘリは主ローターの同軸二重反転形式や、 圧縮空気を噴出させてコアンダー効果を発揮するカウンターノズルの採用などでこれに対処した。だが古い世代の猛禽である大鴉は、このヘリコプターのアキレス腱とも言うべき弱点を残したままだった。 【犬頭族《ドッグズヘッズ》】の六人は文字通りの猛射をこれに加えた。それも単なる一斉射撃ではなく、巧みに時間差を交えた交互射撃でマガジン交換のロスを補い、尾を左右に振って逃れようとする大鴉の動きに途切れることのない連射を追随させて驚異的な集弾率でその尾を火線に捉えていた。  テイルローターが間断なく猛烈な火花を噴き上げ、あの強大な大鴉が目の前で身を捩るようにして苦しんでいた。  毎分500発の連射速度でフルロードの308NATO弾を放つ自動小銃六丁の威力が遂に功を奏し、破片を撒き散らしてテイルローターが停止した。自らの生み出す抗いがたい力に掴まれた大鴉がゆっくりと旋転しながら降下し始める。もはや戦闘の趨勢は決していたが、それでもなお、この鋼鉄の怪物は空中に留まる努力を放棄していなかった。機首の銃身が鎌首を持ち上げて火を吐いた。が、最大仰角を掛けた掃射は空しく崖に吸い込まれ、それを最後の絶叫のように残して急速に沈下していった。  ようやく我に返った俺は身を乗り出して間の抜けた速射を放ったが、数発がローターに火花を散らしただけで有効弾など一発も得られず、誰かに引き倒されて地面に転がった瞬間、地の底から湧き上がった衝撃が全身を貫いた。凄まじい爆発音がそれにつづく。  時間にして僅か数十秒。  大鴉の呆気ない最後だった。  残響が急速に減衰するのを待って顔を上げ、俺は頭上に懸かっている筈の【MISSION COMPLETE】の電光文字を探した。  どこにもなかった。  起き上がってぐるりと周囲を見渡す。  探しても無駄だ、と傍らの中年男が呟いた。 「あれはここでは出ないんだ」  二脚を開いて地面に置いたままのTH64から弾倉を抜き、残弾のチェックをしながらそうつづけた。  俺を引き倒して衝撃波から救ってくれたのも、この男なのだろう。礼を言うべきなのだろうが、俺はそのまま崖の縁へ進み出て下を覗き込んだ。  黒煙を纏いつかせた巨大な火球が、周囲に飛び散った破片とともに静止《フリーズ》していた。  してみると大鴉を仕留めた事に間違いはない筈だった。ではなぜ作戦《ミッション》終了を告げる文字が出現しないのか——。  俺はその解答を促すように、無言で中年男を見つめた。 「ここには俺たちしかいない。ここでの戦闘は端末《ターミナル》に中継されることもない……」  地面に並べておいた弾倉を袖で丁寧に拭いながら中年男がつづけた。 「【アヴァロン】のシステムに無駄はない。そういうことだ」 「あれは単なる観客向けのイベントだと言いたいのか」  中年男は俺の言葉を肯定するかのように、無言のまま弾倉を拭う作業をつづけていた。  おそらくその通りなのだろう。 【アヴァロン】の本質が|演じる《ロールプレイ》ことであるなら、その演じられた劇を観賞する観客を常に必要とする筈だった。戦場《フィールド》に立つプレイヤーは演技《ロールプレイ》する俳優であると同時に他のプレイヤーの観客でもある。だが、たったいま大鴉《ブラン》の撃墜という最大の終幕《クライマックス》を演じた舞台には、呆然と成り行きを眺めていた俺を除けば観客などただの一人も存在しなかった。  俺はもう一度崖の下を覗き込んで見た。  爆発して四散した大鴉の立体映像が微かなノイズを放っていた。この場に非現実的な印象を与えているその映像がやがて消滅すればこの区画は初期値《デフォルト》に戻され、見る者も見られる者もない風景が戻ってくるだけだった。さきほどの激烈な戦闘など初めから存在しなかったかのように——。それを演じた彼らを除けば誰も見なかったし、誰も記憶しない。システムのどこかにその事実が記録され、彼らのデータの累積経験値の数字がひっそりと変わるだけだ。  五人の男たちは相変わらず無言のまま、中年男に倣うように撤収の準備を始めていた。  その姿には大物を墜とした満足感も、やがて手にすることになる報酬への期待感もまるで感じることができなかった。  俺はこの男たちを支えている情熱が何に由来するものなのかを想像して柄にもなく感動し、しかしどこかで深く失望していた。  傭兵《マークス》になってからこの方、俺は様々なパーティーに加わってそれなりの経験を積み、数え切れないほどの修羅場も踏んできた。だがそんな俺にとってもこんな奇妙な作戦《ミッション》は初めてだった。確かに何が完璧といってこれほど完璧に練りこまれた戦術もないし、その戦闘には毛ほどの無駄もなかった。結果が全てに優先する戦闘において戦術そのものの是非を論じることに何か意味があるなどと考えるほど野暮でもない。しかし、これではまるで—— 「嵌め技だと言いたいんじゃないのかね」  中年男が俺の胸中を見透かしたように、そう言って顔を上げた。 「怪物は巣穴から出てきたところを叩くに限る。あれは舞い上がってしまえば無敵に近いからな」 「見事なもんだ。この手で今までどのくらい稼いだんだ」  俺は中年男を怒らせないように慎重に言葉を選んだつもりだったが、結局のところ口をついて出た言葉は身も蓋もないものになってしまった。中年男は、しかしそんなことを気に留める風もなく、相変わらず淡々とした口調で答えた。 「この湧出点を見つけたのは偶然だったが、ここへ辿り着くためのループパターンを解くのには半年以上かかった。だからこそこうしてあんたに話してるわけだが……」  そう言って傍らのTH64の銃身被筒《ハンドガード》に手をかざした。今頃になって硝煙と焼けた銃身がオイルを焦がす匂いが鼻を衝いてきた。あれだけの連射をつづけたのでは空冷用スリットの開いた被筒はもちろん、機関部もしばらくは触れることのできぬほど熱くなっているに違いない。あるいは銃の冷えるのを待つ間に俺の相手をする気になったのかもしれなかった。 「ルートを確立してからがまた大変だった。あれが湧出するタイミングには独特のアルゴリズムがあるらしく、その解析にさらに半年。うちの連中を戦術に特化させるための訓練にまた時間がかかった」  嵌め技を確定するにはそれなりの投資が必要だ、ということなのだろう。俺は先刻の戦闘での六人の驚異的な集弾率を思い出した。  何度も繰り返したかもしれないが30口径の反動は強烈であり、その全自動射撃はゴリラにしか制御できない。伏射による撃ち下ろしという有利な条件ではあっても、その技術をものにするまでにどれほどの弾薬を消費したか——いや、そのためのアクセス料を含めると中年男の先行投資がどれほどのものになるのか、俺には想像もつかなかった。中年男はその資金の捻出に関して触れる気はなさそうだったが、確かにこの男たちに金の話は似合わない。 「それにこの方法は頻繁に繰り返せばすぐにシステムに勘づかれて対抗措置をとられる。作戦《ミッション》に適当な間隔を開けるだけでなく、同じ端末を長期間使用することも避けなければならない」  パーティーの戦術とは、所詮はいかに巧妙にシステムの裏をかくかという一点に尽きる。  この男たちもまた、独自の方法で【アヴァロン】のシステムに挑んでいるに過ぎない。それは判っていたが——それでもなお、俺の胸には釈然としないものが残っていた。 「濡れ手に粟、というわけにはいかない」  嵌め技は裏技ではない、ということらしい。 「しかも常に墜とせるとは限らない。尻尾を叩き損なうこともある」  その時は巣穴から飛び立った恐るべき怪物に、しかも逃げ場のない荒野で襲われることになる。怪物の寝首を掻こうとした猪口才な騎士たちが恐怖と苦痛から逃れる手段といえば——そこまで想像を巡らして俺はこの男が初めに口にした交戦規定を思い出した。  誰も逃げない、全員で戦い、全員で生還する……逃げる奴は殺す。  確かに簡単だった。そしてその通りに行動したからこそ、このパーティーは無感動で無表情な托鉢修道会のごとき抹香臭い集団となったのに違いなかった。 「後学のために訊いておきたいんだが」と、俺は内心の怯えを悟られぬように注意しながら再び訊いた。 「奴のガトリング機銃でハチの巣にされる気分ってのはどんなもんなのかな」 「強烈な衝撃、意識の空白、ベッドでの覚醒……神経性のショックでしばらくは立てない。起き上がったあとでほぼ確実に反吐を吐く。それだけだ」  眉ひとつ動かさずに平然と答え、ようやく触れる程度に冷えた銃を手にしながら腰を上げた。右手を上げて集合を命じる。 「もうひとつ聞かせてくれ」 「何かね」と、煩わしがるでもなく中年男が答えた。 「全自動射撃が可能な30口径なら他にもある。信頼性ならG3の方が確かだと思うんだが」 「FALを使う人間の言葉とも思えんな」  銃の話になった途端に表情が和らいで見えたのは、やはりこの男も紛れもない【アヴァロン】のプレイヤーの一人なのかもしれない。 「あのプレス製の機関部《レシーバー》は過度の射撃では変形を起こしやすい。こんな使い方をつづければすぐに命中精度を落としてしまう筈だ。君のFALと同じ削り出しの機関部と揺動《ティルト》式ボルト閉鎖方式の組み合わせが最も信頼性が高い」  ティルトボルト・ロッキングシステムは前進したボルトの後端が降下し、機関部と結合して発射時の圧力に抗する方式だ。G3の先進的なローラー・ロッキングシステムに比べれば旧態依然とも言えるが、数多くのライフルに採用された実績のある方式だった。 「それにこの二脚はこういった射撃のためには使い勝手がいい。強度に問題があるのは難点だが」  TH64の外見上の特徴のひとつである二脚は、防御陣地から前進または後退して点射を繰り返す半ば軽機関銃のような運用を考慮した設計であり、例の専守防衛という理念の産物でもあったらしい。 「それならいっそFALOにしたらどうなんだ。銃身長も長いし二脚の強度も確かだぜ」  FN—FALOはFALと同じ機関部を用いてこれに長時間の連射に耐える肉厚の銃身と二脚を追加し、軽機関銃のように用いるために開発された分隊支援火器だ。  一瞬困ったような表情を浮かべてから中年男が答えた。 「どう見えたか知らんが、実はうちの連中は分隊支援火器を装備できるほどのレベルではない……というより、それを目的として編成しているとも言えるのでね。これ以上は企業秘密ということで勘弁して貰いたい」  それだけ言って背を向け、集まってきた連中とともに丘陵を下り始めた。 「もうひとつだけ、これは銃とは関係ないんだが」 「何かね」  我ながらしつこいとは思ったが、俺はさらに中年男に並走しながら食い下がった。 「作戦がこれで終了なら俺の仕事はどうなる。いや遠征につきあっただけで報酬を貰えるなら結構な話なんだが」  実際、労せずしてあれほどの獲物の二〇パーセントを貰ったのでは寝覚めが悪い。 「作戦はまだ終了していない」  小走りに降りながら中年男が答えた。 「どういうことだ」 「生憎だが、いまだにセーブポイントは発見できていない。だが市街地からアクセスした以上、これに再びアクセスすることは可能だ。君の仕事はあちらに戻ってから始まる」  俺は虚を衝かれて一瞬言葉を失ったが、言われてみれば確かにこれは盲点だったかも知れない。俺は荒野にセーブポイントが存在することを前提に考えていたが、システム空間に近いその特性を考えるなら、むしろそんなものが設定されている可能性の方が低い筈だ。  熟知しているようでも【アヴァロン】には未だに未知の領域が数多く残されているのかもしれない。この【犬頭族《ドッグズヘッズ》】のような存在がそのいい例だった。彼らは形態においても、その考え方においても従来のパーティーとは大きく異なっていた。 「言うまでもないが、セーブポイントに到着できなければ今までの我々の苦労も水泡に帰す。当然君に報酬を支払うこともできない」  苦労した我々の中に俺が含まれていないことは中年男の口調から明らかだった。 「狙われているのか」  斜面を下りながら徐々に加速し、今や全力疾走に近い速度で走りながら、なおも俺は訊ねた。 「おそらく端末《キャッシャー》で清算している時に目をつけられたのだろう。次にアクセスした時に尾けられた形跡があった」 「奴らの狙いは何だ」 「戦場《フィールド》から一度姿を消し、再び現われたパーティーが生還して膨大な経験値を清算する。君ならどうするかね」 「間違いなく荒野に美味しい話が転がってると判断するだろうな。戦場《フィールド》で揺さぶりをかけ、機を見て現実側で締め上げて吐かせる」 「前回のアクセスではセーブ前に二人殺られた。これは我々の交戦規定に反する」 「全員で生還ってやつか」 「端末《ブランチ》を替えても追ってくるかもしれん。決着をつけたいが相手が判らんし、うちの連中はこの手の戦闘が苦手だ」 「ザコは相手にしない、だろ」  前方に貧弱な針葉樹の森が見えてきた。俺は先頭を切って走り込みながら叫んだ。 「まかせろ、俺はザコの専門家だ」  そう叫んだ瞬間、世界が消失した。   3  一瞬の意識の中断の後に、俺たちは元の橋の袂に立っていた。  大物を墜とした後の撤退《リセット》は難しい。  一刻も早くセーブポイントに辿り着きたいのが人情だが、焦りは必ず警戒心に綻びを作り出す。普段なら何ということのないブービートラップに引っ掛かって吹き飛ばされたり、舐めてかかった歩兵の背後に歩兵戦闘車が控えていたりで折角の経験値を棒に振ったパーティーの話は枚挙に暇が無い。 【犬頭族《ドッグズヘッズ》】の連中は大物相手の群狼戦術《ウルフパック》に特化し過ぎていて、撤退戦闘などという姑息な戦闘に習熟する余裕がなかったらしい。だがこういった撤退時に危険な殿を務めるのは、いわば傭兵の日常業務と言ってよい。  後衛に就いていた俺は一度パーティーを追い抜いてから素早く歩道に乗り上げた軍用トラックの下に潜り込んだ。こんな小細工が通用するかどうかは判らないが、追撃してくる相手を迎え撃つには絶好の場所だった。両足を大きく開いて伏射の態勢に入る。  ほどなく接近してくる五人の人影が前方の車道に見えてきた。追撃に夢中になっているせいか、それとも単に未熟なのか理由は判らないが、背後に建物がなくて背景の抜けのいい車道の中央部を密集して走っている。狙撃してくれと言わんばかりの大らかさだった。  小型の弁当箱ほどもあるFALの箱型弾倉《ボックスマガジン》は銃を水平に構えた時に地面に当たることがなく、AKやM16のバナナ型弾倉に比べると伏射に向いている。俺はピープタイプのサイトを覗き込み、フロントサイトのポストに先頭を進む人影を載せるように照準した。接地した下半身はがっちりと固めて強固な発射台と化していたが、肩の力を抜き、トリガーに掛けた指も添えただけだ。撃つ瞬間までは筋肉の緊張を最小限に抑えておかなければならない。追撃者の影は目測で四〇〇を切っていたし、この条件なら四〇〇程度はFALの必中距離だったが俺は二〇〇まで待つつもりだった。30口径ライフルの場合は標的の正中線を捉えれば死亡《デッド》と判定されるが、狙点を敢えて外す関係で慎重を期したのだ  単に殺るだけでなくマーキングして欲しい、というのが中年男の注文だったからだ。  高い遠射能力を持つと言われるFALの照準調整は、実はそう精緻なものではない。フロントポストの調整には専用の工具を必要とするし、リアサイトはキャッチボタンを押しながら一〇〇メートル単位の刻みに合わせてスライドさせるが、左右《ウインデージ》の調整にはリアサイト・ロックスクリューを回すためのドライバーを必要とする。もともと戦場《フィールド》であれこれ調整するようには作られていないのだ。これは例えばM16のようなアメリカ製の銃とかなり異なるが、基本的にはヨーロッパとアメリカの歩兵銃に対する考え方の違いによる。伝統的に射撃訓練を重要視するアメリカは装備するライフルの照準装置に対する要求も高いが、平均的な兵士の射撃修正能力に期待せず、微調整の効く照準装置よりも操作性を優先する合理主義がヨーロッパ歩兵銃の基本であり、FALはその典型だった。ちなみに俺のFALのサイトは常に三〇〇に固定されているが、戦場《フィールド》での平均的な交戦距離は二〇〇から五〇〇だから微調整は経験で充分に補正できた。  先頭の男の顔がぼんやりと判別できる程度にまで距離が接近し、俺はバッドストックを肩に引きつけてフロントポストの上にその影の正中線を載せ——さらに接近を待って照準をやや右下に下げた。  重いトリガーを絞ると、轟音とともに先頭の男が路上に転がった。つづけて四回、轟音が響く度に追撃者が見えない柵を越え損ねたようにもんどりうって倒れる。  膝撃ちだった。  初めから狙ったわけではない。その五人が顔見知りであることに気がついて撃つ直前に狙いを変えたのだ。  自分でもつくづく嫌な性格だとは思うのだが、俺は復讐 心が人一倍強いだけでなく狸のように執念深かった。  突然襲った激痛に彼らはリセットを叫ぶこともできずに石畳を転げ回り、端末《ターミナル》のベッドを洩らした小便で濡らしている筈だった。その姿を思うと思わず口元に笑みが浮かぶ。  FALを肩に担ぎ上げて、俺はセーブポイントに向かって走り始めた。  お楽しみはこれからだった。  端末《ターミナル》のベッドで覚醒した俺はあれこれとうるさく話し掛けるGM《ゲームマスター》を適当にあしらい、目覚めの一服も省略して廊下に飛び出した。ロビーに駆け込んで先にログオフしている筈の中年男とその一党を探していると、奥のトイレ前に人垣ができていた。その中で横隊を組んだ六人組の一人が合図を送ってくる。 「もう追い込んだのか」  走り寄った俺が訊ねると、トイレの扉を睨んで腕を組んだままの中年男が答えた。 「青い顔で左足を引き摺った五人組が入るのを見た。膝撃ちをやったのか」 「判り易かっただろ」  戦場で受けた傷はその部位にもよるが、覚醒後もしばらくは痺れるような痛みを残す。  中年男が振り返って俺の顔を見つめた。 「そうは見えないが……怖い男だったんだな」 「私恨が入ってる」  俺も中年男を見返しながら言った。 「俺も奴らに尾けられて襲われたのさ。地下鉄の中だったがな」 「なるほど」  中年男が肯いた。 「人の上前を撥ねようなんて連中のやることは虚実を問わない。君にも参加する権利があるという訳だ」 「せっかくだが俺は参加しない」  不審な表情を浮かべる中年男に答えて言った。 「俺、暴力が嫌いなんだ」 「やはり怖い男だったんだな、君は」  中年男が小さく肯いて五人組が突入態勢を組んだ途端、背後からよく響く胴間声が飛んできた。 「何だムライじゃねえか」  振り向いた中年男が近づいて来るガーランドを見て露骨に嫌な顔をした。  人垣を割るようにして出てきたガーランドが、並んでいる俺たちを面白そうに見比べてから言った。 「お前たち知り合いか」 「俺の顧客だ」  ほお、と妙な声を洩らしてから再び中年男に声をかけた。 「久しぶり、というとこだな」 「ここがお前のシマだと知っていれば他の端末《ターミナル》を選んでいた」 【犬頭族《ドッグズヘッズ》】の五人が中年男を守るように揃って一歩前に出た。 「これがお前の生徒たちか」  五人を舐めるように見てから再びガーランドが口を開いた。 「よく仕込んだな」 「当然だ。人間性を吟味しているからな」  どうやらこの二人が旧知の仲であるらしいことは判ったが、互いを見つめる目には懐旧の情などというものはカケラも感じられなかった。【アヴァロン】で友人を見つけることは難しいが、何らかの理由で別れた友人と旧交を温めるなどということはさらに難しいに違いない。だが真っ当などという言葉から程遠い二人の男の間のロクでもない過去など、詮索する暇も興味も俺にはなかった。 「お話し中のところ済まんが」と俺は言った。 「喧嘩なり仲直りなりは、やることをやった後に回して貰えないか」  おうそれだ、と思い出したようにガーランドが俺に向き直った。 「一体なんの騒ぎだ」  俺は、かくかくしかじかの経緯を掻い摘んで話した。 「そういうことなら俺も一枚噛ませて貰う」 「お前には関係ない」と中年男が声を上げ、 「関係はある」とガーランドが答えた。 「第一に狙われた傭兵はこの男だけじゃねえ。最近たてつづけに端末帰りを襲われてて、何とかしなけりゃならねえと思っていたところだ。俺だっていつやられるか判らん。いわば当事者だ」  ガーランドを尾けて襲うなどという無謀な奴がいるとは思えなかったが、早くも面倒臭くなりかけていた俺は黙っていた。 「第二にこの男はオレのダチだ」 「相変わらずだな。友人を作りたがるのがお前の悪い癖だ」  中年男の揶揄を無視してガーランドがつづけた。 「第三に今日のオレは機嫌が悪い」 「オレもだ」と、いつから居たのかガーランドの後ろからコガが声を上げた。 「オレも」とその傍らの林がつづく。 「何だこいつらは」  さすがに憮然とした表情を浮かべて中年男が詰問したが、ガーランドは歯牙にもかけなかった。 「友人を作りたがるのがオレの悪い癖でな」  勝手にしろ、と中年男が吐き捨てるのと同時にガーランドがその巨大な靴でトイレの扉を蹴った。  爆風に吹き飛ばされたように扉が消えた。  なんだ手前らは、と声を上げかけた【親衛戦車連隊】の五人組が表情を凍りつかせて息を呑んだ。  無理もない。  オレと中年男はともかく、ガーランドは熊のような大男だし、コガは何を考えているか判らない怪人だし、林に到っては地底獣国か人外魔境としか形容しようのない面相をしていた。その三人がニタニタしながら便所に侵入してくればオレでも逃げたくなる。  オレは少しばかり連中が気の毒になったが、もちろんそう思っただけであって許す気など毛頭なかった。 「これからお前らを痛めつける」とガーランドが宣告した。 「だが痛めつけられたお前らはこう考えるはずだ。戦場《フィールド》だろうが現実だろうが徹底的につきまとって借りを返してやる、とな。そこで俺たちはまたお前たちを痛めつけ、お前たちが仕返しをする……きりがない」  左膝を抱えた五人組は黙って聞いていた。  それ以外にすることがなかったからだ。 「この悪循環を断ち切る方法はひとつしかない。復讐 心が湧いてこないほど徹底的にお前たちを痛めつけることだ」  それしかねえ、と言ってガーランドが大きく頷いた。 「二月ほどベッドで唸ることになるだろうが、頭さえ無事ならまた【アヴァロン】で遊ぶこともできる。ただしお前らを戦場で見かけたら問答無用で30口径を膝にブチ込む。こいつの308は痛かっただろう」  俺を顎で示しながらそう訊くと、五人組がカタカタと人形のように首を縦に振った。 「だが俺の30—06はもっと痛い。308より一〇パーセントほど強力なんだ」  嬉しそうに笑った。 「|口径クラブ《サーティキャリバ》へようこそ。歓迎するぜ」  ガーランドたちは言った通りのことをやった。 【親衛戦車連隊】の五人組を痛めつけた後、俺たちはガーランドの女が闇市でやっているという店に雪崩れ込んだ。  ガーランドの誘いに応じて、ムライという中年男まで同行したのは意外だったが、どうもこの二人の関係は一筋縄ではいかないらしい。ガーランドの言う五人の生徒たちはムライに一礼すると長居は無用とばかりに端末から立ち去った。終始無言のままだった。  その名も三〇〇六《サンマルゼロロク》という女の店は、構えはさほど大きくないが俺たちの予想を大幅に裏切って小洒落た店だった。女は置いていないし酒以外に食いものも出すらしいが、俺たちがドカドカ乗り込んだ時に食事をしていた二、三の客はそそくさと出て行ってしまった。  ガーランドの女は、三〇がらみの美人と言えば確かに美人なのだろうが、愛想などというものはとっくに消耗し尽くしたらしく、俺たちのテーブルに酒瓶とグラスを運んだきり二度と姿を現わさなかった。  愛想云々は別としても、これはまあ経営者としては至極真っ当な対応で、俺たちのような男が居座ったのでは客も寄りつかないし、そもそも誰も勘定を払う気などないから彼女にとっては災難でしかない。  女の運んだバーボンがたちまち空になり、ガーランドが店の奥から持ち出した二本目のバーボンを飲み尽くしたところでまず林が潰れ、突然席を立ったコガがトイレで轟沈してから俄然ペースが落ちた。それでも酔うということのないガーランドと何の変化も示さないムライ、そして俺の三人はだらだらと飲みつづけた。 「ところであの女なんだが」  三本目のバーボンを魔法のように取り出して封を切りながら、ガーランドが切り出した。 「それだ」  俺はグラスを出して酒と話の両方を促した。  カスどもとのゴタゴタですっかり忘れていたが、あの妙な女のことは気になっていた。 「どんな作戦だったんだ。あの女の素性は割れたのか」 「それがだな」と俺のグラスに琥珀色の液体を注ぎ、自分に注ぎ、ついでにムライの前に置かれたグラスにも注いでからガーランドがつづけた。 「結論から言うと何も判らんのだ」 「何だそれは」 「な、お前あの女の装備。何だったと思う」  ガーランドにしては妙に歯切れの悪い口調だった。 「RPGでも担いでたのか。魔導師《メイジ》のタイプには見えなかったが」 「SVD《ドラグノフ》だ」  俺の頭の中でガーランドの言った言葉の意味が形になるのに、数秒を要した。  そんな俺の反応を確かめるように見つめながら、ガーランドは放り込むようにして口に含んだバーボンを丹念に舌の上で転がしていた。むっつりと飲んでいたムライが僅かに顔を上げる。  ドラグノフ・スナイパーライフル。  正確にはスナイパースカヤ・サモザラヤドナヤ・ビントブンカ・ドラグノバという、実に長ったらしい名前だが、直訳すると狙撃手用半自動ライフル・ドラグノフ型ということになる。通常はドラグノフ、制式化していた旧ワルシャワパクト内ではSVDと呼ばれていた。作動方式は各国の狙撃用ライフルのほとんどがボルトアクション機構を採用していた当時としては珍しいガス圧利用式の半自動連発方式。ボルトの閉鎖はロータリーボルト・ロッキング方式だ。通常は四倍の赤外線探知能力を持つ光学照準器を用いるが、このスコープ内には簡単なレンジファインダーとクロスヘアを照明して薄暮時の照準を助ける小さなランプが装備されている。  使用する弾薬がちょっと変わっていた。  7・62×54R《ラシアン》と呼ばれる弾薬は、なんと一八九一年に帝政ロシア軍が制式化したモシン・ナガン小銃用のライフル弾だった。当時最先端にあったスナイパーライフルがこんな旧式弾を使用する理由は、先の大戦で生産設備に大打撃を受けた結果、利用できる旧来の弾薬製造設備や大量備蓄弾薬を最大限に活用するためだったと信じられているが本当のところは判らない。大きなテーパーとリムのついたこの弾薬の使用は特に機関銃の開発に当たって複雑な給弾機構や弾薬リンクの設計など様々な困難を招いたと言われていて、NATO弾の制式化が突撃銃の開発を大きく遅延させた例と並んで弾薬の選定が銃器開発に与える悪影響の典型と言われている。  SVDを装備する例は【アヴァロン】ではまず滅多にお目にかからない。それはSVD自体の性能の問題というより、これを用いる【狙撃手《スナイパー》】の存在自体がまだ稀少なものでしかないからだった。八〇〇以上の遠射を前提にした設計や一〇発しか装弾できない弾倉は、一般の戦士《ファイター》の装備としては全くの不利しか招かない。 「狙撃手なのか、あの女」  俺はグラスを口に運びながら言った。 「そう言っていいのかどうかよく判らんのだが」と相変わらず釈然としない顔でガーランドがつづけた。 「腕も度胸も凄えもンだった」 「どう凄いんだ」と俺。 「お前な、大鴉《ブラン》の頭を真正面からブチ抜くなんてやり方を見たことあるか」  ガーランドがいつになく真剣な目で俺の顔を覗き込みながら訊いた。 「機首の機銃が向きを変えるほんの一瞬の間に、まず前席のガンナーに二発。つづいて後席のパイロットに二発。凄え連射だった」  俺は呆気にとられて聞いていた。  ガーランドはデタラメな男だが、嘘をつくような男ではない。 「ちょっと待て」とそれまで黙って聞いていたムライが口を挟んだ。 「大鴉《ブラン》のキャノピーは抗弾処理された特殊なガラスだ。7・62ラシアンの直撃程度では貫通しないはずだ」 「強装弾か、もしかしたら徹甲弾を使ってるのかもしれん」とガーランド。 「そんなものを連射したら銃が持たない」 「これは可能性の問題だが」と今度は俺が口を挟んだ。 「抗弾処理済みでも初弾の衝撃で脆くなってる筈だ。次の弾が近傍に弾着すれば貫通できるかもしれん。曲面では難しいが、大鴉のバブルキャノピーは正面だけは平面で構成されているから衝撃効果も大きい」 「ベンチレストならともかく、いつ撃たれるか判らない状況でそんな精密な連射ができるわけがない」 「だから可能性の問題だと言っている」 「奴はやったんだ!」  ガーランドが突然吠えた。  テーブルに叩きつけたグラスから芳醇な香りの液体が飛び散った。 「オレだけじゃねえ、そこで潰れてる林も、トイレでくたばってるコガも見たんだ!」 「判ったから落ち着け」  シャツを濡らされたムライが顔を顰めながら、相変わらずの淡々とした口調でなだめた。  無駄に消費されて水位の下がったグラスに俺が追加分を注ぐと、それを一気に呷って今度はゆっくりと喋り始める。 「俺たちが接続したのは……例の瓦礫だらけの最低のフィールドだった」 「あのナポレオン時代の武器庫の遺跡のあるオープンフィールドか」と俺。 「廃墟《ルインス》R61だ」とムライ。  どうやら順番に話をしなければ埒があかないと判断したらしい。 「接続した時点ですでに正規歩兵《トルーパー》二個小隊と薄馬鹿どもがドンチャン騒ぎの真っ最中よ。頓馬な奴らが血迷って223や5・45ラシアンをバラ撒きやがって顔も上げられねえ。あんなカスどもに小口径のフルオートを持たせるからまともな撃ち合いもできなくなっちまうんだ。だいたい……」 「いいから話を進めろ」と早くも脱線しかけたガーランドをムライが修正する。 「お前の小口径不要論は聞き飽きたし、ここにいる誰も反対しない」  ふん、と鼻を鳴らしてガーランドがつづけた。 「で、その乱戦の真っ只中に大鴉が実体化しやがった。それからはもう酷えもんだったぜ。最初の対地ロケットの斉射で薄馬鹿どもの半分が吹き飛ばされ、つづいて50口径の掃射が始まった」 「阿鼻叫喚ってやつだな」と俺。 「オープンであれに上を取られたら助からん。もともとそういう状況のために設計された空中機動砲台なんだ。大鴉《ブラン》の出現を想定して戦わない指揮者の能力の問題だ。そもそも実戦能力のない司教《ビショップ》を指揮者に選ぶことが……」 「手前《てめぇ》の司教《ビショップ》不要論も聞き飽きてるし、ここにいる誰も反対しねえ」  ガーランドが怒気を含ませた声でムライの能書きを粉砕した。 「オレの話を聞く気があるのかないのかどっちだ!」 「つづけろ」  ムライがあっさり折れて、ガーランドが話を再開した。 「例の武器庫の遺跡まで撤退《リセット》できたのはオレたちの他には数名だけだった。だがあの遺跡は知っての通り場所が悪い」 「裏の川は渡渉不能に設定されてたな」  俺は頭の中に戦域図《マップ》を思い浮かべた。  川岸に建てられたその建物はナポレオンがロシア遠征用の武器や食糧の備蓄のために建造した煉瓦造りの堅牢な倉庫で、裏手には艀を舫う船着場が付属している。現実にヨーロッパの各地に残されている遺跡を模したものと言われているが、もちろん俺はその現物を拝んだことなどない。 「正規歩兵《トルーパー》に包囲されて雪隠詰めだ。すぐに大鴉が降下してきた。拙いことに撤退《リセット》戦闘で撃ちまくったから林のMAGはもちろん、俺たちの弾薬も残り少ない」 「包囲されたアラモ砦だな」  このガーランドあたりは役どころで言えばデイビー・クロケットといったところだろうか。俺は自分の連想が誘発した笑いを堪えるために臍に力を込め、歪んだ口をグラスで覆った。 「そんな場所へ逃げ込むからだ。犠牲を覚悟してセーブポイントへ走るべきだった」  ムライが的確にそう評した。 「そのセリフをこの林に聞かせてやりたいもんだぜ」  テーブルを涎で汚して寝ている林を顎で杓りながらガーランドが言った。  そういった状況になれば分隊支援火器や軽機関銃を持つ林のような男が殿に就くことになるが、まず生還は望めない。 「女の指示だったんだ」  ガーランドがぼそりと呟き、その言葉の効果を待つように沈黙した。  俺の頭の中にあるぼんやりとした考えが浮かび、それが徐々に輪郭を描き始めた。 「もしかすると」  俺が口にしかけた疑惑をガーランドが肯定した。 「ああ。俺もそう思うんだ……奴は大鴉を誘ったんじゃないかとな」  反論しようと身を乗り出したムライを抑えてガーランドがつづけた。 「確証はない。だがそう考えねえと辻褄が合わん。俺たちが建物に駆け込むと、女はすぐに上の回廊に向かった。正面に滞空《ホバリング》した大鴉《ブラン》が腰を据えて凄え掃射を始めた。あんな目にあったのは久しぶりだったぜ。何しろ辺り一面が銃弾と砂塵の嵐で、オレたちでも壁に張りついてるのが精一杯だった。正規歩兵《トルーパー》が突入してくるのも時間の問題だったし、あとは殲滅されるのを待つだけ。腰抜けどもが我先にリセットして残ったのはオレたちだけだ。こりゃもう駄目だと観念したところへ女から指示が飛んできた。火力を集中して敵の右を叩け、とな」  そこまで一気に喋って、一息入れた。  俺が注ぎ足したバーボンを呷り、太い息を吐いてからつづけた。 「俺たちは撃ちまくったよ。弾が切れたらライフルを振り回して殴り合いを演じる覚悟でな。一瞬掃射が切れて大鴉が俺たちに銃塔を回した途端……」 「ガンナーに二発、パイロットに二発か」  俺もグラスに残ったバーボンを口に放り込み、三本目が空になった。 「墜ちたのか」とムライが厳密な結末を要求し、ガーランドが億劫そうに答えた。 「墜ちた。なにしろ超低空だったからあっという間に接地横転して火の玉だ。衝撃波で地上の敵があらかた吹っ飛び、オレたちも頭を出してたら危なかった」 「検討に値する戦術だが、いくつか満たすべき条件がある。事前の戦闘で対地ロケットを消費していること。立て篭もる建造物が機銃に対して充分な抗堪性を有すること。適切な射撃位置が確保されていること。さらに……」 「絶対の自信を持つ狙撃手《スナイパー》が存在すること、だろ」  ムライの講評に俺がオチをつけた。 「やはり嵌めたのかもしれんな」 「お前もそう思うか」とガーランドが嬉しそうに応じた。 「だが依然として判らないのは女の目的だ。何らかの理由でパーティーを組めない狙撃手が大物を狙う仕掛けに傭兵をブラ下げる遣り口はともかくとして、そもそも稼ぎが目的ならあんな契約をするわけがない」 「これはオレの勘なんだが」とガーランドがいつになく真剣な表情で言った。 「試そうとしたんじゃねえのかな」 「試すって何をだ」 「あの女、端末に戻って清算する時にな」  ガーランドは何かを思い出すように少し視線を泳がせてから口を開いた。 「仲間を恃む者は必ず逃げる、そう言ったんだ」  仲間を恃む者は必ず逃げる——と俺は頭の中でその言葉を繰り返してみた。  所詮は他人である仲間を信じてこれに自分の運命を託すことは難しい。託すものが虚構の中の生死であってもそれは同じだ。いや、事後の覚醒が約束されている世界であればこそ人はその裏切りの結果に向き合うことを余儀なくされ、その信義を問われる。一度きりの現実を生きる者は生きるために裏切りを受け入れ、自らも人を裏切るが、それが繰り返される生死の中のただ一度きりの裏切りであれば人はむしろこれを許すことができないものなのだ。 【アヴァロン】は試みる、と俺は言わなかっただろうか。  恐怖や打算によって実は人は容易く信義を裏切る。そうでしかあり得ないと知っていながら信じずにはいられない、その不誠実ゆえに裏切られ、そして自らも人を裏切る。仲間を恃む者こそ必ず逃げるのだと——それがあの女の過去に連なる言葉なのだとすれば、それでもなお人を試みようとする心とはどんなものなのだろう。  俺は女の水のように冴えた目を思い出していた。 「腹が減ったな」  どうでもいいが、といった口調でガーランドが言った。 「何か喰うか」と俺も投げやりに答えた。 「あのアマ不貞腐れて寝ちまったからヤキソバくらいしか出来んぞ」と言ってガーランドが席を立った。  どうやら自分で作る気らしい。 「葱は入れるなよ。酒の味が濁る」  贅沢抜かしやがってと呟きながら厨房へ向かうガーランドに、それまで沈黙していたムライが声を掛けた。 「おい」 「何だお前も喰うのか」 「先刻からお前たちが話している女だが」 「あの女がどうかしたのか」 「もしかすると法外な分配率で傭兵を雇ってパーティーを組んでる女のことか」  俺とガーランドはしばし顔を見合わせた。  ではこの男はいままで一体誰の話をしていると思っていたのだろうか。  俺は激しい脱力感に襲われて椅子の背凭れに全身を預けた。 「ああ、その通りだ。ふらりと端末にやってきて、法外な分配率で、俺やコガや林を雇って、パーティーを組んで、あっさりと大鴉を撃ち墜とした妙な女だ」  無限の忍耐心を見せたガーランドが噛んで含めるように答え、怒気を込めてつづけた。 「それで、手前が話してた女は誰なんだ」 「俺はその女に直接会っていない。お前たちと話の前提が違っていただけだ」  何を怒っているのか、と言いたげな口調だった。  言われてみればその通りだったが、その前提の違う話に平然と参加していたムライの神経を俺は疑った。 「直接会ってはいないが、その女の話は聞いたことがある」  そりゃ本当かと喜色を浮かべたガーランドが急激に態度を変えてテーブルに戻った。 「で、何者なんだ」 「先月まで使っていた端末で聞いた話だ。これはと思う傭兵に声をかけて法外な契約でパーティーを編成する。いつ頃から出没するようになったのかは知らんが、あちこちの端末を渡り歩いているらしい。その端末の傭兵たちは、|灰色の貴婦人《グレイレディ》と呼んでいた」 「洒落た名をつけたもんだな」  ガーランドが鼻を鳴らして言った。 「灰色の貴婦人は円卓の跡地に出没する幽霊の名前だ。埋蔵されたアーサーの宝物を守護しているという説もある」  ムライがその博識の一部を開陳して解説した。アーサー王伝説にまつわる故事や由来にこだわるプレイヤーは流行の初期にはかなり存在した。今でも古参の傭兵の中には時おりこの種のネーミングを好む者がいたが、あるいはこの男もかつてはそういった人間の一人だったのかもしれない。 「俺が話を聞いた傭兵の一人に言わせると、よく判らないが何かのテストを受けているような気分だったそうだ」 「テストって、一体何のテストなんだ」と俺。 「よく判らないがとその傭兵は言っていた、そう言わなかったか」 「言った」 「そいつに判らないものが俺に判るわけがない」 「確かにな」  怒ったガーランドがテーブルの足を蹴飛ばした。突っ伏していた林が何か呟いて起き上がったが、またすぐに潰れた。トイレに行ったきりのコガは依然として帰ってこない。 「何を怒っている」とムライが訊ね、 「怒ってねえよ!」とガーランドが吠えた。  要するに何も判らないことに変わりはないが、あちこちで繰り返しているとなると、ただの気紛れであるわけがない。 「金もかかる話だ。ただの酔狂とも思えんがな」 「必ず何かウラがある筈だ」  女の行為が意図的であることは確かであり、俺とガーランドは互いの目を覗き込んでその意志を確認し合った。 「だがどうやって調べる」 「締め上げて吐かせればいいさ。簡単だ」  なんなら俺のテクニックにものを云わせても吐かせてみせる、とガーランドが喚いた。 退屈しきっていたゴリラに格好のオモチャを与えた格好だった。  だがやるべきことを見出して上機嫌になっているガーランドとは別に、俺はあの謎めいた女が容易にその素性を明かさないのではないかという思いに捉えられていた。  いや、それだけではない。  あの女には何か、その名の示すような不吉な影が纏わりついているような気がしてならなかった。それに触れるものを破滅させるような、不吉な影が。 「そういえば」とムライが呟いた。 「なんだ、また何か思い出したか」と、期待していないことをあからさまに示した口調でガーランドが訊いた。 「あの女のパーティーに参加した連中のなかに、そのまま帰ってこなかった男がいたそうだ」 「帰ってこないとはどういう意味だ」 「未帰還《M・I・A》、か」  俺は自分の中にあった暗い予感が急速にその輪郭を明らかにし始めたのを感じながら、そう口にしていた。 「ああ未帰還だ……ワイバーンとかいうパーティーの指揮者をやっていた司教《ビショップ》で、仁《ジン》という男だそうだ。そう聞いている」  俺は椅子を鳴らして立ち上がった。  自分でも顔から血の気が引いているのが判った。  ガーランドが不思議そうに俺の顔を覗き込んで何か話し掛けていたが、俺の頭の中にはムライが口にしたその男の名前だけが繰り返し響いていた。  長い間忘れていた、いや忘れようとしてようやく忘れかけていた名前だった。  俺を【カバル】という名で呼んだ数少ない人間の一人。  俺が裏切り、そして俺を裏切った男だった。 [#改ページ] 古い円卓——オールドテーブル   1  たとえそこが初めて訪れた区画であっても【端末《ブランチ》】を探し当てることはさして難しくない。 【アヴァロン】が接続を開始する夕刻に街角に立ち、二人三人と連れ立って歩く若い男たちの後についていけば、薄汚れた街に相応な薄汚れた建物の入口に案内してくれる。  端末の内側も似たようなものだ。  予備接続《エントリー》や清算のための各種端末が並んだ長い廊下と、接続を待つプレイヤーたちが屯するロビー。濛々たる紫煙に滲むホログラフの光。喧騒の中から時おり湧き上がる歓声。  そのどれもが、一瞬ここがいつもの通い慣れた端末なのではないかと錯覚させるほど見覚えのある光景ばかりだった。  俺は巨大な接続表示盤の差し掛けられた一角に足を向け、送風用のダクトに腰掛けてハードカバーを開いている男に声をかけた。 「済まないが人を探してる」  長髪を首の後ろで束ねた男が顔を上げた。 「女魔導師《ウィッチ》だ。最後に会った時は髪を赤く染めていた」  どこの端末でも人探しに名前など何の手掛かりにもならないが、女の魔導師はそれなりに稀少な存在だった。 「RPG使いか」  俺が肯くと男は読んでいたページに指を挟んで立ち上がり、前方のロビーを見渡した。 「奥から二番目の自動販売機、その前に旧西ドイツ陸軍のフィールドジャケットを着た連中がいるだろ」  俺はその一団の中に探していた人物を認め、男に礼を言って踵を返した。  幾つか設置されたホログラフが戦闘の中継を始めたらしく、立ち上がってこれを見上げる人垣でロビーはほとんど立錐の余地もなかった。その混雑を避けて壁際を進んだ俺は、 近づくにつれて増してくる妙な気持ちの昂ぶりに戸惑い、ここに来たことを半ば後悔し始めていた。女は暗緑色のジャケットの一団に混じってホログラフを見上げていた。  何の予兆もなく女が振り向いた。  昔から妙に勘の働く女だったが、訪ねてきた俺の方がふいを衝かれて足を止めた。  俺が口を開く前に女が動いた。傍らに立つ長身の男に何か告げると、いきなり俺の腕を掴んで強引にその場を離れる。引き摺られるようにして歩きながら振り返ると俺たちを見送る長身の男と目が合ったが、男はすぐにホログラフへ顔を戻した。一瞬だったが、俺はその粘りつくような視線を見逃さなかった。 「二度と会わない、連絡もしない。そういう約束だったわね」  廊下の片隅に俺を連れ出した女が詰問するような口調でそう切り出した。久しぶりに顔を合わせた昔の仲間に言う台詞ではなかったが、女にはそれを口にする権利があった。いや、立場が逆であれば俺もまた同様の言葉を口にした筈だ。何故なら俺たちは単なる仲間に留まらず、しかも合意の上でその関係を断ち切った関係だったからだ。だが敢えて禁を犯して訪ねてきた以上、最低限の目的は果たして帰らねばならなかった。 「約束を破ったことは謝る。この通り」  俺は手を合わせ、さらに直角を越える角度で頭を下げた。  破りたくて破ったわけではない——などという反論は相手の怒りを増幅させるだけであり、怒っている相手との対話の継続を望むならまずは謝る一手だった。それが女であれば鉄則と言っても過言ではない。 「だが俺とお前のことで来たわけじゃない。仁の事を訊きたくて止むを得ず来ただけだ」  陶器のように硬かった女の顔に明らかに動揺の色が浮かんだ。 「知っているんだな」 「知ってるわよ、もちろん」  戸惑ったときに自分を叱咤するように語気を強める癖も昔のままだった。 「これからうちのパーティーが接続するの。その後にして」  女は時間と場所を告げると俺に背を向けて足早に立ち去った。  何かしら違う応対を期待していたわけではなかったが、僅かな言葉の遣り取りにも決して一線を越えまいとする女の頑なさが酷く堪えた。  当然の報いだった。  裏切りにもいろいろあるが、この世でただひとり尊敬する友人の女と寝るほど酷い裏切りがあるとは思えない。  どこかのパーティーが大物を仕留めたのか、ロビーから大きな歓声が上がっていた。  女の指定した店は端末から一区画離れた通りの角にある小さな喫茶店だった。  五分ほど早く着いた俺は、店内を見渡して女がまだ到着していないことを確かめてから真っ直ぐに奥のカウンターに向かった。端末のスリットに受給カードを通し、埋設式ディスプレイに表示されたメニューの「本日の珈琲」の中から炭火焼ローストを選んで注文した。  瞬時にコーヒーが目の前に置かれた。  カップに顔を寄せると香ばしいというより何かが焦げた強烈な匂いが鼻腔を直撃した。そもそも間髪を措かずに出てくるコーヒーが「炭火焼ロースト」などであるわけがなかった。俺はせめて味だけでも補正しようとカウンター上に並べられた半透明の樹脂製のポットに手を伸ばしたが、全て空だった。ミルクがない、と俺が言うと、カウンターの奥に腰掛けて雑誌を広げていた中年女が一瞬だけ顔を上げ、それがどうしたという表情を示しただけで再び雑誌に目を落とした。  全てを諦めた俺はカップを持って通りに面した窓際の席に着いた。  店内は簡素という表現を通り越して荒涼としており、唯一の装飾である壁の油絵だけがここが廃屋でなく喫茶店であることを主張していた。奥の席に置物のような年金生活者の老人が新聞を読んでいるだけで他に客もいない。  俺はぼんやりと壁に掛かった油絵を眺めた。  長椅子に寝そべった耳の長い犬の絵だった。その犬が哀しそうな目でこちらを見つめている。何がそんなに哀しいのだろう、と考えていると女が店に入ってきた。  女は儀礼的に手を上げた俺を無視して真っ直ぐにカウンターに進み、一連の手続きを経たのちにカップを手にして俺の前に座った。  左眼に大きな痣が浮かんでいた。 「白兵戦闘でもやったのか」 【アヴァロン】のシステムによって与えられた擬似信号に現実の肉体が生理的反応を起こすこと自体は、実はそう珍しいことではない。通常は弾着部が充血する程度ですぐに消えるのだが、ごく稀に戦場《フィールド》で受けた傷が現実に帰還してから体に現われて出血に到った例もある。幻肢と呼ばれる現象や、熱狂的な宗教家に現われる「聖痕」なども基本的には同じ原理によって惹き起こされる。だが俺の知る限り、この女の体質はそういった現象と無縁だった。 「あんたのせいよ」  俺は端末のロビーで俺に向けられた、あの長身の男の粘りつくような視線を思い出した。 「お前の男は女を殴るのか」 「私を殴るのよ」と女は俺の言葉を微妙に修正した。  女は目の前のコーヒーには手も触れず、傍らに置いたショルダーバッグから取り出した煙草に火を点けながら話し始めた。 「言っておくけど私もたいしたことは知らないわよ。同じ端末にはいたけど、別れてから話をすることもなかったんだから」  あの女が端末に姿を見せていたのは長くても二週間程度で、傭兵で編成されたパーティーや、その法外な契約内容は少なくとも傭兵たちの間ではかなりの評判になったらしい。傭兵の中には声を掛けられ、そのパーティーに参加することを一種のステイタスと見なす風潮もあったらしいが、一方で試すようなその遣り方に反発する者の数も少なくなかった。  確かにこの辺りまではムライから聞いた話とさほど変わりはない。 「いずれにせよ、仁の未帰還で騒ぎが大きくなった時を境に姿を見せなくなったそうだけど」 「ちょっと待ってくれよ……それじゃ仁が未帰還になったのは」 「あの女の最後の作戦《ミッション》だったわ」  これは重要な指摘だった。仮に仁の未帰還とあの女に重大な関わりがあったとするなら、それが最後の作戦《ミッション》に起きたことも単なる偶然とは考えにくい。そしてそれがあの女の目的の一部であり行動様式なのだとすると、ガーランドの言い草ではないが手っ取り早く締め上げるのが正解なのかもしれない。 「ひとつ判らないんだが」  俺は未帰還の話を聞いた時から感じていた疑問を口にした。 「仁《ジン》の階級《クラス》は司教《ビショップ》だった。その仁が何故あの女の召請に応じたんだ」  戦闘能力に劣る司教《ビショップ》はパーティーの指揮を執る以外の適性をもたない。その意味では最も傭兵に向かない階級であるとも言える。 「パーティーを解散してから本当に一度も」 「会っていない。会えるわけがない」  女が二本目の煙草を咥えた。 「あいつ、半年前にレベル13をクリアしたのよ」  階級にもよるが、レベルアップは二桁になってから急速に難しくなる。レベルの上昇に必要な経験値が等比級数的に増大してゆくからだ。どんなプレイヤーでも二桁を越えるあたりから伸び悩むようになり、レベル13はプレイヤーの前に立ち塞がる大きな障壁とされていた。レベル13を越えたプレイヤーは文字通り稀少な存在であり、紛れもない英雄《ヒーロー》だった。なぜならレベルアップの最大の敵は、全ての努力を無にしてしまう撤退《リセット》だからだ。 「上位聖職者《ハイビショップ》、か……」  俺は素直に感嘆の声を洩らした。 【上位聖職者】はもちろん制式化された階級ではないが、プレイヤーたちは敬意と憧れを込めてハイレベルの障壁を越えた司教《ビショップ》をその名で呼んでいた。レベル13を越えた司教《ビショップ》は優れた指揮能力と強大な戦闘力を併せ持つようになる。一種の万能プレイヤーだった。 「仁のやつ、ソロでやってたのよ」 「そいつは凄い」  同じようにパーティーに属さない単独の存在であっても、【傭兵《マークス》】と【単独者《ソロプレーヤー》】ではその意味において雲泥の差があった。傭兵が単独であるのは職業としてのそれであって所詮はどこかのパーティーと行動を共にしなければ戦えない存在であるのに対し、単独者は文字通り一人で戦場に立ち一人で生きてゆく存在を意味する。 「始めた頃はなかなか上手くいかなかったみたいだけど、最近は接続する度に大物を仕留めて帰って来たらしいわ。ああいう性格だから、あまり目立たなかったけど」 「しかし妙だな……」  単独接続《ソロプレイ》が軌道に乗り始めていたのなら、なおのことパーティーの召請に応じる理由が判らなくなる。本人が未帰還になった以上、その真相を知るためにはこの端末での最後の作戦《ミッション》に参加したプレイヤーにあたる他になさそうだった。  俺は無言で女の顔を見た。  女は目を伏せて形のいい唇から烟を吐いていた。その唇に薄く刷いたルージュは俺の知らない女の新しい習慣だった。あるいはあの長身の男の好みを映したものなのかもしれない。薄い耳朶に下げた琥珀が赤い髪に馴染んでいたが、かつてはその同じ場所を銀のアンクが占めていた筈だった。 「私に調べて欲しいのよね。その時のメンバーが誰だったか」  それだけは変わらない、勘の良さを示して女が言った。 「俺の頼みを聞くとまた痣ができるんじゃないのか」 「舐めないで。私もあれからひとつレベルを上げたの。男なんかに頼らなくたって一人でやっていけるわ」  ぴしゃりと撥ねつけてつづけた。 「礼なんか言わないでよ、貸しを作る気はないんだから」  これを契機に縒りを戻す気はない、ということらしい。  煙草を木目模様の消滅した樹脂製のテーブルで捻り消し、バッグから紙とペンを取り出して何か書きつけて差し出した。  かなり離れた区画の住所《アドレス》だった。 「午前中は受け付けてくれない。まあ会っても何が話せるわけでもないけど」  俺はようやくそれが仁の収容された病院の住所だと気づいて顔を上げた。不思議そうに俺を見つめていた女の顔が、それと察してみるみる険悪な表情に変わる。  何が迂闊といってこれほど迂闊な話もないかもしれない。考えてみれば当たり前の話だが、未帰還といっても意識が戻らないだけで仁の現実の肉体はこちらに残されている。というより、それが仁という存在の置かれた状況の全てであって他に何があるわけでもない。  仁を気遣うのであれば、まず真っ先に収容された病院を訪ねるのが順当な筈だった。  自分の迂闊さに茫然としている俺に、女の怒りの初弾が直撃した。 「呆れたもんだわ」  ぞっとするような侮蔑が込められていた。 「親友の一大事みたいな顔して現われておきながら、本人に会いに行くことも忘れてたなんて一体どういう神経してるの」  二弾三弾が的確に命中《ヒット》し、起ち上がって俯角を取った女の凄まじい掃射が始まった。 「あんたも、仁のやつも、私を殴ったあいつも……男なんてみんな同じよ。責任だの義務だの自分の言葉にのぼせ上がっていい気になって、そのくせ現実はまるごと女に背負わせて……能無しのクズが廃人になったって当然の報いよ。あんたも仁も【アヴァロン】でロストしちまうがいいんだわ!」  俺の中に僅かに残されていた矜持とか自尊心と呼ばれるものを完膚なきまでに粉砕した女は、それこそ風を撒く勢いで店を出て行った。  俺は長い時間を壁の犬の絵を眺めることで過ごした。  本当に何がそんなに哀しくてあんな目をするのだろうか——。  俺はカップを口に運んで冷えきった泥水を啜った。不味いコーヒーの形容にせんぶりのような、という言葉がある。俺はもちろん煎じ薬など飲んだことはないが、そのせんぶりの方が遥かにマシな味がするに違いない。こんなものを飲んだところで酒に荒れた胃をさらに悪化させるだけだったが、俺は自分に刑罰を与えるように、その毒液をすべて飲み干した。  腰を上げて出口へ向かいながら振り返ると、窓際の席の年金生活者らしき老人はまだ新聞を読んでいた。  本当に置物だったのかもしれない。   2  HIC IACET ARTHURUS、REX QUON DAM REX QUE FUTURUS——。  正面の小高い丘に病棟の白い建物を望む玄関には、そう記した鋳鉄製のアーチが掛けられていた。  ラテン語だかウェールズ語だか知らないが、その言葉の意味はプレイヤーなら誰でも知っている筈だった。なぜならこの言葉は【アヴァロン】のルールブックの第一ページ目に印刷されているからだ。 「此処にアーサー眠れり。かつての王、現在の王、そして未来に再び王とならん」  まあ大体こんな意味だったと思う。  どこの誰だか知らないが、この施設の設計者が冷笑家だったことだけは間違いない。 【アヴァロン】で未帰還となった者が覚醒した例は俺の知る限り一例も存在しなかった。  受付の女は俺が来意を告げると、無言でカウンターの端にある端末《ターミナル》を指差した。受給カードをスリットに通すとディスプレイが微かな音とともに起動し、訪問目的の選択画面が表示される。【収容者との面会】を選択すると収容者指定画面に切り替わり、入力を促すプロンプトが点滅した。  姓名、現住所、年齢、性別、受給票番号、職業、勤務先……。  俺は仁について俺が知っていることを思い浮かべた。元【ワイバーン】の主宰者兼指揮者で現在は単独接続者《ソロプレーヤー》。司教《ビショップ》。レベル13。モーゼルミリタリーC96を装備。抜群の指揮能力を有し常に沈着冷静……だがそのどれもが入力事項には該当せず、俺は入力可能な性別の欄にMALE、姓名にJIN、ちょっと考えてから職業欄にAVALONと打ち込んでリターンキーを叩いた。案の定、入力事項が満たされていない又は誤っているので再入力せよという趣旨のメッセージが表示され、初期値の収容者指定画面に戻った。  俺は再び受付の女の前に戻って来意を告げ、仁という男である他に何も知らないがどうしても会わなければならないのだと説明した。姓名か受給票番号だけでも入力できれば検索できるのだがと訊かれ、俺がそのどちらも知らないと答えると女は肩を竦めて椅子を回し、再び自分の端末に向かった。  正確に五分間、俺は女の横顔を見つめたまま立っていた。女の横顔が魅力的だったからではなく、会わなければ帰れないのだという意志を示すためだった。根負けした女が奥の事務室に引っ込み、入れ替わりに初老の男が現われて俺を事務室に招き入れた。おそらく俺のような訪問者に慣れているのだろう。  初老の男は静かな口調で丁寧に説明してくれた。  この病院は篤志家の寄付によって運営されていることになっているが、実質的にはその大部分が【アヴァロン】の収益金からの拠出によって賄われ、しかも非合法である【アヴァロン】は法的にはもちろん道義的にも未帰還者に対するあらゆる責任を免れており、その運営は純然たる善意に拠っている——要するにお情けで収容してやっているのだから文句を言うな、ということだった。強制収容などではないから近親者の申し出があればいつでも引き取っていただく旨をつけ加えることも忘れなかった。  お判りいただけただろうかと初老の男が尋ね、俺はよく判ったと言って席を立った。  もちろん納得したからではなく、これ以上ゴネつづければ警備員が登場するからであり、傍らの机の上にVISITORと記された樹脂製のカードが無造作に放り込まれたケースを見つけたからだった。  事務室を出た俺は受付の女に丁重に礼を述べて玄関の自動ドアを抜け、それが閉じる前に再び中へ滑り込んだ。俺の静殺傷術《ストーキング》の技能《スキル》はそれほど高くないが、警備員一人いない受付を突破することくらいは雑作もなかった。ちょろまかした三角形のIDを胸につけて実質的な関門である昇降機の前に立った時だけ少し緊張したが、このIDは使用するたびに磁気コードを書き換える型《タイプ》ではなかったらしく、昇降機のセンサーは俺を正規の訪問者と認めて扉を開いた。  病棟は恐ろしく殺風景だったが日当たりだけは素晴らしく、廊下やホールに大きく開けられた窓から差し込む斜光が無言で行き交う医師や看護人たちを存在感の希薄な影絵のように浮かび上がらせていた。  俺は目的を持った訪問者を装いながら、仁の姿を求めて病室を覗いて回った。病室はどれも同じ造りになっていて、八台ずつ収められたベッドはどの部屋でも収容された未帰還者によって占められていた。未帰還者と呼ばれる人間たちに接するのはこれが初めてだったが、俺を驚かせ、そしてたじろがせたのは彼らの印象の極端な画一性だった。  半ば閉じられたまま何も映していない目、僅かに開かれた口元……意志や表情を完璧に剥ぎ取られた顔は無表情という形容すら躊躇させるほど無機的で、初期値《デフォルト》に戻された顔という言葉を連想させた。仔細に眺めれば性別や年齢、肌の色の違いなどによって各々を識別することは決して難しくない筈なのに、一度目を離してしまえばその顔は記憶の中から速やかに消去されて全体の印象の中に埋没してしまう。それはまるで壁に並べて掛けられた仮面がその数に比例して個々の差異を失い、最後にはただそれが仮面であるという同一性のみしか記憶に残せなくなるのに似ていた。  幾つか病室を覗いて回り、そこに収められた顔を個々に異なる人間の顔として眺めようと奮闘した果てに、俺はその徒労に近い努力を放棄した。その顔が仁であるかどうか——それだけを唯一の基準に目の前の顔と記憶を照合する単調な作業がつづいた。  廊下に沿って等間隔に並ぶ病室の扉には、その部屋を他と識別する番号札すら掛けられていない。見渡せば長い廊下の前にも後にも同じ形式、同じ色の扉が並び、病室の前に立てばそこが確かにこれから入るべき部屋なのか、それともたったいま出てきた部屋なのかの判断に一瞬戸惑いを覚えるほどだった。  時おり行き違う看護人たちは部外者である俺の行動に不審の目を向けるでもなく、それが何かの儀式ででもあるかのように無言のまま薬品を載せた台車を押していた。この男たちは収容されている患者をどのように識別しているのだろうか——と俺は考え、そもそも識別されるべき人間などここには存在しないのだという事実に思い至って密かに慄然とした。もともと一枚の受給カードによってかろうじて社会に繋がっていたような遊民など、その意識すら永遠に失って廃人になってしまえば、その時点でもはや社会的に識別を要する何者でもない。彼らはただ人道上の理由という社会の建前によって、かろうじて生かされ管理される匿名の存在に過ぎなかった。  俺は玄関のアーチに掲げられていた言葉を思い出した。かつての王、現在の王、そして未来に再び王とならん……だがその未来はおろか、過去の記憶や現在の生すら失った者たちの収容された施設が英雄の魂の眠る場所などである筈がなかった。  俺はすでにこの場を訪れた理由の大半を失いながら、それでもなお仁の顔を捜し求めて病室を巡りつづけた。そして果て知れぬ照合によって記憶の輪郭が失われかけた頃、とある病室の片隅に探し求める顔を見出した。  仁という男を語るのに多くの言葉はいらない。  仁こそは紛れもなく理想的なプレイヤーであり、後にも先にも奴ほど完璧だった指揮者《アルファ》を俺は知らない。優れた情報分析に基づいてより有利な戦域を選び、いざ戦闘となれば冷静な判断と的確な指揮によってパーティーに確実な勝利をもたらす。その一方で形勢不利とみれば速やかに退き、犠牲者を出す前に全員をセーブポイントに導く。無駄な戦闘は可能な限り避ける、犠牲者も撤退者も出さない、たとえその日の戦果が意に満たぬものであってもこれを確実にセーブする——仁の交戦規定はあくまで【アヴァロン】の原則に忠実で、そこには奇を衒ったものなど何ひとつなかったが、そうであるが故にその戦術指導はパーティーの全員に確実なレベルアップをもたらした。そして仁の能力の高さはパーティーの指揮だけでなく、その戦闘能力にも遺憾なく発揮されていた。【司教】という階級の装備制限によって強力な火器こそ持たなかったが、奴のモーゼルミリタリーは特に撤退戦闘時の混戦において後退する仲間を敵の伏兵から掩護するのに有効だった。俺自身、その小気味のいい射撃によって何度も危ういところを救われていた。俺たちもまた全幅の信頼と果敢な戦闘でよく仁の指揮に応えたと思う。凡庸な司教に率いられたパーティーが絶えず犠牲者を出すなかにあって【ワイバーン】だけが常に全員生還という困難な課題を果たし得ていたのは、仁という優れた指揮者の能力と人間的資質に負うものだった。それが現実《ニュートラル》であっても間違いなくエリートの道を進んだであろう男が、なぜ【アヴァロン】のプレイヤーとなったのかは判らないが——奴こそは英雄となる資格を持つ男であり、円卓《ラウンドテーブル》にその席を約束された男だった。  全てが順調だった。前衛が着実にレベルアップを重ね、パーティーの宝ともいうべき魔導師《メイジ》が成長を遂げ、そして仁が上位聖職者《ハイビショップ》となる頃には【ワイバーン】は常に終端標的《フラグ》を狙えるハイレベルのパーティーに成長する筈だったし、俺たちの誰もがそれを信じて疑わなかった。  あの事件が起きるまでは——。  俺はベッドの傍らに立って、かつて仁と呼ばれた男の顔を見下ろしていた。  半透明のチューブを鼻腔に繋ぎ、センシング用のケーブルを首筋に結線された男の目はもはや何も映していなかった。僅かに開けられた口からは微かな呼吸が漏れていたが、それもこの男が単に生きているという以上の事実を語ってはいない。  何の感慨も湧き上がってはこなかった。  仁という男はここにはいない——ふいにそんな思いが俺の頭に浮かび、それはすぐに確信に変わった。  仁という男は此処には不在だった。  目の前のこの男が、あの仁である筈がない。だが此処にいないとすれば、奴はいったい何処に居るのか。  現実に不在だとするなら——奴のいる場所が戦場《フィールド》以外にある筈がなかった。  受付のカウンターにIDを返却し、幽霊を見るような眼で俺を見ている女に再び丁重に礼を述べて病棟を出た。  緩やかな坂道を下り、玄関のアーチを潜って外へ出ると今まで気づかなかった雲雀の囀りが聞こえてきた。俺は重く垂れ込めた空を眺め渡したが、雲間の何処にもその姿を見出すことはできなかった。  振り返ると、訪れた時と同じように彼方の丘の上に白い病棟が望めた。  ここは見果てぬ夢を追い、力尽きて倒れた戦士たちの眠る廃兵院だった。だがその魂はいまも残留データとして戦場にあり、そしてその広大な戦場の何処かに仁もいる筈だった。  廃兵院に背を向け、俺はゆっくりと歩き出した。   3  |灰色の貴婦人《グレイレディ》の姿は俺が病院を訪れた日を境にふっつりと消えた。  見かけたその場で押さえて締め上げる、というガーランドの意図はその初動で空しく挫折し、俺はあちこちの端末《ブランチ》に赴いて情報を集めることに数日を費やした。  その成果も捗々しいものではなかった。  あの女の行動はどこの端末でも判で押したように同じで、法外な契約で傭兵を編成して接続し、多くても七回に満たない作戦《ミッション》の後に現われたときと同じように忽然と姿を消す。最後の接続で仁のような未帰還《ロスト》を出すこともあったが、全てのケースに共通しているのは未帰還となった者がその端末でも指折りの上級者《マスター》であることくらいで、他にこれといって際立った共通点がある訳でもない。未帰還者の殆どが戦士階級だったのは戦士の傭兵に占める割合を反映したものと考えられたし、ロストした者たちの中には魔導師《メイジ》や盗賊《シーフ》も少数ながら含まれていた。  私恨や報復の類ではない。  戦場《フィールド》での私闘の例は決して少なくないが、その殆どがパーティー間の引き抜きや対立に基づく泥仕合に過ぎず、端から利害や打算が原因だから最後は端末で殴り合いを演じた挙句に金銭の授受を伴う手打ちに至るというのが定番だった。女と召請に応じた傭兵たちの間には過去に何の接点もなさそうだったし、何より女の初対面の印象が俺にそれを確信させていた。  あの水のように冴えた目が恨みや痴情の縺れといった卑俗な感情を映す筈がない——何の根拠もないが、俺にはそう思えてならなかった。  同様の理由で、あの女の行動が純粋に利害に基づくものとも考え難かった。  確かにあの女がその作戦によって稼ぎ出す経験値は召した傭兵たちの接続料や分配する割合を差し引いてもかなりのものだったが、単なる経験値稼ぎにしては効率が悪すぎる。ガーランドに聞いた女の腕が本当なら、高額の報酬で傭兵を召請する以外にもっと効率の良い方法がいくらでもありそうだった。  あの女の意図を推し量る唯一の手掛かりは召に応じた傭兵たちが等しく漏らしていた印象——試されたような気がする、という言葉だけだった。  法外な報酬を餌に傭兵を集めて作戦《テスト》を繰り返し、絞り込んだ熟達者を率いて最後の戦場《フィールド》に赴く。  その過程のどこに女の目的があるのか。  そして未帰還という現象は単なる結果に過ぎないのか、あるいはそれこそが女の最終的な目的なのか。  その名が暗に示す通り「|灰色の貴婦人《グレイレディ》」の真の意図は杳として知れず、深まる一方の疑惑を抱えたまま舞い戻った端末《ターミナル》で俺を待っていたのはもう一人の女からの便りだった。 「あの女、お前の同棲者《バード》か」  興味津々といった表情で封筒を渡すガーランドの言葉に、俺はそれが誰のことなのか瞬時に思い浮かべることができなかった。 「お前のアドレスがどうなってるか知らねえが、いまどき封書の離縁状とはえらく古風じゃねえか」  受け取った封筒の裏を返すと、その片隅に小さな手書きのアンクが添えられていた。  あ、と小さく声を漏らした俺にガーランドが更に言い募る。 「いきなり待機所《ピスト》に現われてFAL使いの糞ったれに渡してくれと抜かしやがった……お前、赤毛の女だけはやめた方がいいぞ。ありゃ気が強えばかりで男を駄目にする。悪い事は言わねえからスッパリ別れちまえ」  勝手な妄想を展開しつづけるガーランドを無視して俺は封を切った。  折りたたまれた紙を広げると簡潔な表現で先日の依頼を実行したこと、それはあらゆる意味で好意に基づくものではないこと、これ以降は俺のようなクズとのあらゆる関わりを一切拒否すること、できれば俺に速やかにロストして欲しいこと、そして最後に会見の時間と場所が指定されていた。  あの喫茶店での凄まじい剣幕から推して全く期待していなかっただけに、これまた女の意図を測りかねながら俺は顔を上げた。 「この店、知ってるか」 「愁嘆場につき合う趣味はねえよ」 「未帰還者を出した作戦《ミッション》の生還者に会って話を聞く」  ガーランドの表情が一変し、俺の手にした紙を覗き込むようにして唸った。 「……単独《ソロ》で行くとこじゃねえ」 「ヤバい店か」 「ヤバい店だ」  ガーランドが顔を顰めてつづけた。 「オレが同行する」  ガーランドは自分の女に店を持たせている関係もあって闇市にそれなりの顔が利く。用心棒としても適任以上の存在だった。 『龍苑《ドラゴンパレス》』は闇市の中でも特に古い区画に店を構える中華料理店だった。  薄汚れたビルの半地下式の入口から中へ入ると正面に昇降機の扉が三つ並んでいた。その中のひとつ、DRAGON PALACEと打ち抜かれた鉄板の掲げられた扉の前にガーランドと並んで立つと、お名前をどうぞという声が頭上から響いた。天井のどこかに監視カメラとスピーカーが仕込まれているらしい。  俺は少し考えてから、カバルと答えた。  もし女が予約を入れているなら、間違いなくその名前を使っている筈だった。  数秒の間を置いて扉が開き、俺たちが中へ入ると間髪を措かずに溜め息のような音と共に背後で扉が閉まる。  溜め息を吐きたいのは俺の方だった。  こういう持って回った接客方法で客の特権意識や優越感を擽るのは高級店の最も好むところであり、そのための設備投資は全て料金に加算される。実質以外に興味を持たない俺のような無粋な人間には迷惑以外の何ものでもなかった。俺が女の底意地の悪い性格を思い出してうんざりしていると、何の前触れもなく昇降機が停止して扉が開いた。  一歩踏み出そうとして顔を上げた俺は、そこがいきなりロビーになっている店内を一目見てその場に凍りついた。  そこで店が開けるほど巨大なロビーの床は赤い絨毯がびっしりと敷き詰められ、吹き抜けの天井には宝玉を握り締めた巨大な青龍の浮き彫りがとぐろを巻いていた。  咄嗟に昇降機の閉鎖ボタンに手を伸ばした俺は背後のガーランドに突き飛ばされるようにしてロビー内に踏み込み、一列横隊に並んだチャイナドレス一個分隊に一斉に頭を下げられて進退窮まった。 「ここまで来てジタバタするんじゃねえ。腹を括れ」  ドスの効いた声でガーランドが背後から囁き、俺は案内役らしい女の後について処刑場に向かう死刑囚の如き重い足取りで歩き出した。  真紅のチャイナドレスで武装した女は背後につづく男たちの視線を充分に計算した腰の動きを見せて前進した。一般にスリットの切れ上がり方と店の料金は比例関係にあるが、この女のそれは腰どころか脇の下に迫る勢いだった。絶望的な気分とは裏腹に俺の目はそのスリットから規則的に出現する真っ白い足に吸いついたまま離れず、我に返ったときにはすでに廊下は分岐を繰り返す迷路のように変化していた。 「この廊下の分岐は襲撃を想定して設計されてるのさ。この店に来る客の中には敵を持つ連中も少なくないからな」  俺の疑問に答えるかのようにガーランドが解説を加えた。 「分岐ごとに大きな鏡が嵌め込まれているのに気づいたか」 「ああ」 「半透過鏡《マジックミラー》だ。中は小部屋になっていて短機関銃を装備した警備員が詰めてる」  本気とも冗談ともつかぬ口調でガーランドがつづけた。 「客室の半分はダミーだ。突入すれば地上十二階からダイブして即死。たまに酔っ払った客や無銭飲食の逃亡者が落ちることもある」 「やけに詳しいじゃないか」と俺が皮肉を込めて言った。 「闇市で商売してる奴なら誰でも知ってる。ヤバい店だと言ったはずだ」 「料金もヤバいんだろうな」  答える必要もない、とばかりにガーランドが口を噤んだ。  難攻不落とか不帰の迷宮といった言葉が脳裏に浮かび、この店を指定した女の悪意を呪っているうちに客室に到着した。  部屋に入るとすでに着席して待っていた先客が卓上に広げた本から顔を上げる。 「何だあんたか」  もはや少々の事では動揺しなくなっていた俺は、気の抜けたような声でそう言った。  初めて訪れた端末で女の所在を教えてくれた、あのハードカバーの男だった。 「奇遇ってやつだな」と苦笑いを浮かべて男が本を閉じ、俺たちが円卓を囲んで席に就くと同時に扉がノックされた。返事もまたずに別のチャイナドレスが現われ、お連れ様がお見えですと言って先導してきた中年男を招き入れた。  ムライだった。 「誰が呼んだ」と俺が叫び「俺が呼んだ」とガーランドが平然と答えた。 「興味があるそうだ」  俺がガーランドの口の軽さに呆れている間に、さっさと席に就いたムライは俺たちを先導したチャイナ一号の差し出すお絞りで顔を拭い始めていた。 「それじゃ自己紹介といくか」  地元優位の原則に乗じたガーランドが早くも場を仕切り始めた。 「噂は聞いてるよ」とハードカバーが口を挟んだ。 「いまどきM1《ガーランド》を振り回してる物好きな大男がいるってね」 「俺もフィールドで馬鹿な野郎を見かけたことがある」  ガーランドがチャイナ二号からメニューを受け取りながら応じた。 「そいつはBAR《ブローニング》で盛大に30—06をバラ撒いてたが、あんたにそっくりだった」  声を合わせてバカ笑いする06兄弟《ブラザーズ》を、ムライが何の感情も浮かべずに眺めていた。 「この辛気臭い野郎は……」 「犬頭族《ドッグズヘッズ》のアルファだろ。あんたのパーティーの卒業生はあちこちで引っ張りだこだ。犬のように命令に従順だそうだ」  ハードカバーが挑発的にお絞りで鼻をかんだが、ムライは耳のないような顔でメニューを開いた。 「そしてこちらは元ワイバーンの前衛だったFALのお兄さん、だったよな」 「あいつがそう言ったのか」  俺はさり気無く訊いたつもりだったが、その声に篭もった怒気を感じたのか、メニューを差し出すチャイナ二号の手が止まった。 「……あの女魔導師《ウィッチ》は何も言わなかったよ」  ハードカバーが庇うようにそう答え、殊更に抑えた口調でつづけた。 「この世界は思ったより狭いってことさ……それにあんた、あちこちで例の女について嗅ぎ回ってるそうだな。結構評判になってるよ」  そんなことは考えたこともなかったが、言われてみれば俺の行動が周囲にひどく胡散臭いものに映っていたというのはありそうな話だった。 「まあいいじゃねえか、お互い干渉しねえのが傭兵《マークス》稼業のいいところよ……飯、頼もうぜ」  ガーランドが緊張した場を解すように卒業アルバムのようなメニューを開いた。 「その前に言っておくことがある」  何を置いてもはっきりさせておくべき事があった。 「この場のホストは俺だ。ブローニングのお兄さんはゲストだしガーランドには同席を頼んだ。だがあんたを呼んだ覚えはない」 「心配は無用だ。俺の喰う分は俺が支払う」  ムライがいつもの淡々とした口調で答えた。 「結構。それじゃ各自好きなものを……」  そう言ってメニューを覗き込んだ俺は絶句した。  料理名の右端に添えられた価格は俺の予想を遥かに越えていた。この客室に到着する過程で見た店内の造作やチャイナドレスたちの品質から相応の覚悟はしていたが、現実に提示された数字はその覚悟の一桁上を示している。前菜の棒棒鶏《バンバンジー》一皿ですら【アヴァロン】の経験値に換算すると突撃銃一丁に相当し、これが主采の鮑の蒸し物級ともなれば軽機関銃一式の購入を可能とする経験値となる。  喰う前からすでに反吐を吐きそうな恐るべきメニューだった。  顎髭をしごいてメニューを睨んでいたガーランドが、フカヒレの……と言いかけるのを制して俺は叫んだ。 「五目炒飯と餃子を三人前ずつ頼む」  こんな奴らに好き放題に喰われたのでは破産どころでなく、短機関銃の待ち構える迷路を素手で突破することになる。これで決定とばかりに音を立ててメニューを閉じると、ガーランドが妙な顔をして俺を見た。 「俺も同じでいい」とムライが投げやりに言ってメニューを閉じると「酒も飲みたいな」とブローニングが言った。 「俺は酒を飲むと口が滑らかになるんだ」  飲ませなきゃ喋らねえ、ということらしい。 「ここの老酒《ラオチュ》は美味いぞ」とガーランドが薦め、 「瓶でくれ。冷でいい」とブローニングが応え、 「グラスを……四つだ」と俺が締めた。  本当はビールにして欲しかったのだが、料理を安く上げられた安堵感が俺を鷹揚な気分にさせていた。酒までケチってブローニングに舐められたのでは元も子もなくなるし、瓶で注文した以上、ムライに飲ませても勘定は一緒だった。  俺のケチな注文にも嫌な顔ひとつ見せず、チャイナドレスたちはメニューを回収して部屋を出た。 「早速だが……」と俺が水を向けると、 「何でも訊いてくれ」とブローニングが応じた。  ガーランドが椅子を軋ませて背凭れに身を預け、ムライが腕を組んで静聴の態勢に入る。 「仁て奴だが、知ってるな」 「単独《ソロ》で接続してた司教《ビショップ》だろ。名前は訊かなかったがあの女の作戦《ミッション》で一緒だった。モーゼルミリタリーを小気味よく鳴らしてたな」 「そいつだ」  俺は少し体を乗り出すようにしてつづけた。 「そいつと一緒に接続した時のことを訊きたい。まずその時のメンバーだ」 「俺とモーゼル、他にPK《プレメット》使いのセイジって野郎と魔導師のサト。それにあの女を入れて全部で五人だった」 「魔導師の装備は」 「M79」  ガーランドが低く唸り、ムライが腕を組んだまま小さく頷いた。  M79グレネードランチャーは前世紀後半に米軍が制式化した単発の榴弾発射器で、その源流は第二次大戦中に日本陸軍が使用した擲弾筒にまで遡る。元来グレネードとは着弾して炸裂する形式の弾薬を指すが、これには歩兵が手で投擲する手榴弾《ハンドグレネード》から火砲で発射する榴弾《シェル》まで様々なものが存在する。最小の装備しか持たない歩兵分隊が手榴弾をより遠く正確に着弾させたいという発想がグレネードランチャーを発展させたが、M79はそれまで主流だった歩兵ライフルの銃口に取り付ける発射機とは異なり、初めから大口径のグレネードを発射するための大口径火器として開発された点に最大の特徴がある。M79の使用する40ミリの大口径グレネード弾薬はハイ・ロー・プレッシャーと称する特殊な構造を備えており、低腔圧で重い榴弾を発射できる性能を持っていた。そのおかげでこの弾薬を使用するM79のバレルはアルミニウム系の軽合金で製造することが可能となり、その重量は未装填で三キロに満たない。またその弾薬も対人用の破片効果を狙ったハイエクスプロージョンの他に、発煙弾、照明弾、催涙弾等のヴァリエーションに富み、様々な用途に用いることが可能だった。  M79は朝鮮戦争で敵の人海戦術の前に大量の犠牲を払った米軍の戦訓から開発されたが、一〇年間の製造期間中に約三五万丁が製造された傑作火器で、後にベトナム戦争においてその威力を発揮したと言われている。  携行重量制限の厳しい【アヴァロン】ではRPGと並ぶ魔導師《メイジ》の主要装備のひとつであり、対機甲戦闘能力こそないが正規歩兵《トルーパー》部隊との戦闘における威力は絶大だった。 「大したもんだ」とガーランドが面白そうに言った。 「40ミリグレネードに30—06のBAR《ブローニング》、310ラシアンのPK《プレメット》とSVD《ドラグノフ》……モーゼルがちと貧弱だな」 「奴はモーゼルの他にHK33を下げてたよ。上位聖職者《ハイビショップ》だったんだ」  HK33はいわばG3のスケールダウンモデルであり、突撃銃の標準口径である223を用いる。全長が一〇センチ短く重量も600グラムほど軽い。いかにハイレベルとはいえ司教階級の携行重量制限からすれば308クラスの歩兵ライフルはまだ無理な筈だ。さらにレベルが上がればG3あたりに乗り換えるつもりだったのだろう。そうなればハイレベルの戦士と比べても火力において何の遜色もなくなる。  ガーランドが小さく口笛を鳴らした。 「凄えパーティーだ。約一名を除けば全員が大口径の正面装備。しかも分隊支援火器が二丁。指揮さえまともなら正規歩兵《トルーパー》一個小隊を相手にできるぜ」 「とんだ金喰い虫だ」  ぶすりとした口調でムライが水を差した。 「正規歩兵一個小隊程度の経験値なら弾代で足が出る。無意味な重装備に過ぎん」 「それじゃ手前《てめ》っちのパーティーはどうなんだ」  ガーランドが吠えた。 「TH《ホウワ》とかいう訳の判らねえ全自動ライフルで308をバラ撒いてるそうじゃねえか」 「うちはザコは相手にしない。純然たる戦術的要請からする適正な装備だ」 「なるほど、それじゃあの犬ッコロみてえな兵隊を量産するのもその御大層な戦術的要請のためってわけだ」 「M1を振り回して喜んでる鉄砲馬鹿に戦術の何が判る。そもそも……」  そのつづきはガーランドの呑み屋でやれ、と一喝して俺は二人を黙らせた。 「済まない、つづけてくれ」  俺が促すとブローニングは二人の口喧嘩など気にする風もなく、相変わらず飄々とした口調で話し始めた。 「まあ正直言って俺も驚いたよ。こんな重装備で一体どんな戦争やらかすつもりなのかってな……ところが、だ」  俺たち三人が思わず身を乗り出した時、部屋の扉がノックされた。  失礼しまぁす、という声とともに先刻のチャイナドレスたちが山車のようなワゴンを押して入ってきた。  唖然としている俺の前にワゴンを止め、大皿に被せられた金メッキの蓋を持ち上げると山盛りの魚、烏賊、蛸、海老、鮑等が姿を現わしてガーランドとブローニングが歓声を上げて拍手した。  なんだこれは何だとうろたえる俺にチャイナ一号が微笑みかけた。 「本日の五目チャーハンは海鮮五目、全て近海ものでございます」  その向こうではチャイナ二号が龍の浮彫りをあしらった円形の鉄板で妙な形の餃子を焼き始めている。 「海鮮五目はこの店の特選メニューで、その日の水揚げに左右されるから常に喰えるようなシロモノじゃねえ。ラッキーだったな」  文字通り満面の笑みを浮かべたガーランドが解説した。五目炒飯と言えば卵、ハム、グリンピース入りだと確信していた俺の傍らでチャイナ一号が灼熱した鉄板に魚介をブチまけた。油の爆ぜる音とともに盛大に湯気が上がり、たちまち新鮮な魚介の香りが室内に満ちた。  まさに悪夢だった。  俺の正面に座ったムライの顔も絶望に歪んでいる。  チャイナ一号が香り付けの酒を振り注ぎ、フランベの炎が天井まで上がると再び歓声が上がった。  チャイナ二号がグラスを配って老酒を注いで回ると座は一気に盛り上がり、声も出ない俺とムライを無視して06兄弟が乾杯の声を上げて飲み始めた。ほどなく焼き上がった餃子を取り分けた白磁の皿が目の前に置かれる。程よく焼き色のついた半透明の皮の下に、色鮮やかな小海老や小柱などが透けて見える小洒落た餃子が三個ずつ載っていた。  おそらくそのひとつがフルロードの308NATO20連弾倉、いや下手をすると50口径50連に換算されるかもしれぬ餃子を頬張ったガーランドが老酒を手酌で飲り始めた。さらに焼き上がった五目海鮮炒飯の大皿をチャイナ一号と二号が力を合わせて円卓中央の回転台に載せると、ブローニングが椅子を蹴って立ち上がった。  山盛りの魚介の上に申し訳程度に米がトッピングされたそれは、断じて五目炒飯などではなかった。  どうぞゆっくりとお召し上がりくださぁいと言ってチャイナドレスたちが立ち去ったが、ゆっくり喰おうなどと考える奴は誰一人いなかった。いまや全員が立ったまま大皿に箸や手を突っ込んで30口径や50口径、40ミリグレネードやRPGの弾頭を嚥下し、突撃銃の骨や軽機関銃の殻を卓上や床に撒き散らして貪り喰っていた。そもそもが喰いながら歓談するなどという悠長な習慣など誰も持ち合わせがなかったし、俺やムライに至ってはどんなに喰ってもその満足度が支払いを上回ることなどないのだから全員が餓鬼と化して喰いつづけた。  狼藉は僅か五分で終了した。  なお未練たらしく貝殻をしゃぶっているガーランドを除いて、俺たちはぐったりと背凭れに体を預けて天井を見上げていた。 「……美味かった」  快感の呻き声を漏らすようにブローニングが呟いた。 「あの赤毛の女魔導師に話を持ちかけられた時は新手の傭兵《マークス》狩りじゃないかと疑ったが、 来て良かった」  最後の一言が生きてて良かったと聞こえた。  これで支払いさえなかったら俺も全く同感だった。  あの女《アマ》こんど会ったら殺してやる——そう誓いながら俺は口を開いた。 「堪能したところで話のつづきを聞かせて貰おうか」  この男から搾り取れる限りの情報を搾り出してもとっくに原価を割っていると思われたが、このまま帰られたのではそれこそ目も当てられないことになる。 「どこまで話したかな」 「いったいどんな戦争をやらかすのか、ところが……そこからだ」  ムライがそれだけは奢りの老酒を舐めながら促した。 「それだ」とブローニングが応じる。 「俺たちが接続した戦場《フィールド》だが、いったいどこだったと思う」 「クラスCの塹壕でないことだけは確かだ」とガーランド。 「勿体つけずに言ってくれ。腹に喰ったものが入っているうちにこの店を出たい」と俺。  せめて満腹感だけでもテイクアウトしたかった。  ブローニングが太い息をひとつ吐いてから言った。 「廃墟《ルインス》R66」 「|虐殺の橋《スローターブリッジ》か……ありゃあいけねえ」  ガーランドがしゃぶっていた貝殻を床に放り出して毒づいた。  フィールドクラスA—R66。 【虐殺の橋】と呼ばれる戦場《フィールド》はハイレベルのプレイヤーなら知らぬ者のない難所だった。  戦域そのものはさして広くもない、瓦礫と化した東欧の小都市を模した戦場だったが、その中央を流れる川に架けられた二〇〇メートル程の鉄道橋が問題だった。接続地点《アクセスポイント》である橋の此岸にはこれといった敵もいないのだが、フラグが出現する彼岸側の橋の袂に強固な防御陣地が設営されていて、前進しようとするパーティーに猛烈な弾幕を展開する。掩体物といえば鉄橋のトラス程度しか存在しない橋上では迂回もならず、重機関銃の猛射に釘付けにされている間に、グレネードを撃ち込まれるわ、狙撃されるわ、しかも時間経過とともに両岸から装甲車は湧いて出るわで、早々に撤退《リセット》しなければ生還の可能性などゼロに近い——いや壊滅必至の戦場《フィールド》だった。  事実多くのパーティーが果敢にこの橋に挑んだが、その全てが撤退を選ぶか殲滅されるかして敗退していた。 「ありゃ駄目だ。戦車でも繰り出さねえ限り渡りきれやしねえ」  そう言い放ってガーランドが老酒のグラスを呷った。 「【アヴァロン】の設計者たちは紛れもない天才だ。俺は常々そう思ってプレイしてきた」  ムライがグラスを掌の中で弄びながら呟いた。 「極限まで簡略化されたルール。練り込まれた経験値《ポイント》システム、一見不可能に見えても実は攻略可能な絶妙のゲームバランス……どれひとつとっても完璧だ。だからこそ俺はそのシステムの間隙を突こうと戦術の研究に明け暮れてきた」  グラスを空けてつづけた。 「だがあの戦場《フィールド》のバランスの悪さだけは解せない。遺憾ながらその点だけはガーランドに同意する……断言してもいいが、携行火器だけであの橋を渡ることは不可能だ」 「俺も同感だ」とブローニングが応じた。 「だから言ったのさ。俺は臆病風に吹かれて撤退《リセット》したことはないが自殺する気もないってね。セイジやサトも同意した」 「で」と俺が促す。 「あの女はこう答えたよ……この橋は渡れる。何故なら私はかつてこの橋を渡り、そしてそこから戻って今ここにいるのだから」  全員が息を呑んだ。 「出鱈目だ」  ガーランドが真っ先に口火を切った。 「確かにあの女は飛び切りの凄腕だが、そんな真似ができるわけがねえ」 「絶対に不可能だ」とムライが先程の主張を繰り返した。 「不可能である以上、嘘を言っているとしか考えられん。その意図は不明だが」  俺は端末で出会った時の女の姿を思い浮かべた。  男物の軍用コートに身を包み、プレイヤーたちの群れから距離を置いて壁に背を預けて煙草を吸っていた。黒い短髪が妙に目立つのは、その髪に混じった幾筋かの銀髪との対照がそう思わせていたのかもしれない。薄いフレームの眼鏡をかけていたが、俺を見つめるその目が水のように冴えていた。  僅かに一度、それも通りすがりのように視線を合わせただけだったが、あの女の残した印象はいまも鮮烈に脳裏に浮かべることができた。そしてどのような意図であれ、あの女の冴えた目と虚言を弄するという言葉はどうにも結びつきそうになかった。  その思いはガーランドも同様らしく、この男にしては珍しいことだがその表情の端に隠し切れない動揺を浮かべていた。 「どうにも信じられんな……」  俺が口にした曖昧な言葉を、ブローニングは彼なりの意味に受け止めたようだった。 「俺も信じられなかったさ。だから訊いてみたんだ、橋の向こうには何があるんだと」 「何があるんだ」  噛みつきそうな顔でガーランドが言った。  ブローニングはグラスに残っていた老酒を口に放り込み、唇の端を思い切り歪めてから答えた。 「橋の向こうには|特A《スペシャル》の戦場がある……あの橋は特Aへの唯一の入口《ゲイト》なんだそうだ」  ブローニングが突然奇怪な笑い声を上げた。 「スペシャルAだとォ」  怒声を発して立ち上がったガーランドの背後で跳ね飛ばされた椅子が激しい音をたてて倒れた。 「ああスペシャルAだ」  ブローニングも勢いよく席を立ち、目を剥いて睨みつけているガーランドを睨み返す。 「噂に聞いたことぐらいあるだろう……撤退不能だが獲得できる経験値も法外な幻の戦場《フィールド》。接続した奴は二度と戻らない|不帰の王《グンデバルト》の領地のことさ」  妙な話だが、俺は今のいままで特Aと呼ばれる隠しフィールドと仁の未帰還とを結びつけて考えたことがなかった。その存在のみが語られ接続したという者のいない幻の戦場《フィールド》。 ブローニングが口に出すまでその可能性に思い至らなかったのは、あるいはその存在があまりに伝説化されていたからなのかもしれない。現に突然飛び出した特Aという言葉に反応して詰問はしたものの、ガーランドもまた振り上げた拳の処置に窮して徒に相手を睨みつづける他にないようだった。 「それで……手前はどうしたんだ」  唸るような声でガーランドが訊いた。 「俺がどうしたかって」  笑い出したときと同じように突然緊張を解き、妙に疲れた表情を浮かべてブローニングが答えた。 「橋を渡ってたらそこで死亡《デッド》判定されたとしても端末《ターミナル》中に触れて回ってるさ。いや……それとも今頃施設に送られて、ここであんたらと飯なんぞ喰っちゃいなかったかもな」 「仁は、あいつは渡ったのか」  俺は無駄と知りつつもそのことを訊かずにはいられなかった。 「言ったろ、俺は渡らなかった。セイジもサトもな……俺たちがセーブポイントに引き返したあと、奴と女がどうしたかなんて知らんよ」  少し躊躇してから続けた。 「だが……」 「だが? だが何だ」 「奴が未帰還になったって話を聞いたとき、こう思ったのさ……ああやっぱり渡ったのか、とね」  ガーランドは起ち上がった姿勢のまま動かず、ムライもまた微動だにしなかった。  もちろん俺も次の言葉を固唾を飲んで待ちつづけた。 「妙な奴だったよ。女がその話をした時も何も言わなかった……もしかしたらあの橋の向こう側に何があるのか、見当がついてたのかもしれん。そんな気にさせる奴だったよ」  そう言ってブローニングは客室の入口へ向かった。  誰も止めなかった。  チャイナドレスたちが皿を下げに来るまで俺たちは無言でそれぞれの思いの中に閉じ籠もっていた。  円卓の上は惨状を呈していたが、チャイナドレスたちは無言でその全てを片づけ、三人の前に芳香を放つ茶を残すと来たときと同じように静かに立ち去った。  ガーランドが転がっていた椅子を起こし、腰を据えて再び老酒を飲み始めた。 「仁は特A《スペシャル》にいる」  俺がそう呟くと一瞬だけ酒を注ぐ手を止めたが、聞こえなかったかのようにグラスを満たして口に運んだ。 「仁は特Aにいるんだ」と今度ははっきり声に出して言った。 「それをどうやって証明するつもりだ」  ムライが疲れきった声で応じた。 「仮に橋を渡って特Aに接続したとして……まあその可能性も殆どないわけだが、なぜ帰ってこない。撤退《リセット》不能だとしても死亡判定されるなりセーブするなりして端末に戻る筈だ」 「言ってたろ、接続した者は二度と戻らない|不帰の王《グンデバルト》の領地だって」 「それは単なる修辞に過ぎない。文字通り帰還不能ならそれはもはや戦場とは言えんしゲームですらない」  ムライがグラスを差し出して酒を要求すると、ガーランドが瓶を逆さに振ってみせた。 「もう一本注文していいか」 「ああ、自分の金でな」と俺が答えると、上着のどこかから魔法のようにバーボンを取り出して器用に老酒の白い陶器の瓶に注ぎ足し始めた。  金を払う気はないが、ここで閉店まで粘ることに決めたらしい。 「いずれにせよ状況証拠ばかりだ。その仁とかいう司教の未帰還と特Aを結びつけて考える具体的な根拠は何もない。特Aと呼ばれるフィールドの存在が確認されていない以上、原因不明の現象をさらに根拠のない存在に関連づけて説明する愚を犯すだけだ」  ガーランドの手から奪取した瓶を自分のグラスに傾けながら、ムライが続けた。 「そもそもあのブローニングの話からして現段階では裏づけも何もない、ただの与太話である可能性も否定できん」 「いまの話が嘘だって言うのか?」 「奴は戦わずして引き返してきたんだ……担いきれなかった状況を過大に評価するのは負い目を持つ者に共通の心理過程だからな。結果的に事実を捏造することもある」 「奴は嘘をつくような男じゃねえ」  ガーランドが即座に否定した。 「いい加減な野郎かもしれんが、でまかせの座興でタダ飯にありつくようなお調子者ならそもそもBARなんぞ振り回しゃしねえ」  それは確かだった。  奴が【アヴァロン】を単なるゲームと考えるような男なら、その装備に敢えて旧式のBARを選ぶ筈がなかった。戦闘や戦術における合理性に自分の拘りを優先させる理由があるとすれば、それは何よりもゲームを自己実現のための舞台として選んだからに他ならない。この傾向は特に傭兵たちの間に顕著に見られるが、だからこそ彼らは傭兵たらざるを得なかったのだとも言える。 「だからお前たちは勝てないんだ」  ムライが吐き捨てるように言った。 「ゲームはまずなによりもシステムとの戦いだ。システムに知悉することでその間隙を突き、これに確実に勝利を収める……目の前の敵を操るシステムそのものに勝つことこそ重要なんだ。お前や奴のように骨董品を振り回してイキがってみせたところで、所詮はシステムに踊らされるだけだ。俺は|魔法使い《グイネバウト》のチェス盤の上で永遠に踊り続ける駒になる気はない」 「大したもんだ、面白くもなんともねえ」  ガーランドがグラスを円卓に叩きつけて吠えた。 「手前があんな糞面白くもねえ連中を育て上げてる理由がそれか」 「必要な能力とレベルを持つ前衛戦力を養成してこれを必要とするパーティーに供給する。システムに打ち勝とうとするプレイヤーにとって必要なのは信頼できる戦力であって、余計な思い入れをパーティー内に持ち込むお前のようなプレイヤーは扱い難いだけでなく有害な存在に過ぎない。送り込まれたプレイヤーもそれで安定した経験値と生活を獲得できる。それぞれが必要とするものを手に入れるんだ。感謝されて然るべきであって非難される謂れはない」 「嬉しくって涙が出るぜ。そんな所帯染みた連中と組むぐらいなら特Aでロストした方がマシだ」  これは永遠に交わらない二つの考え方の応酬だった。ムライの言う通りゲームそのものに勝つためにゲームに参加する自分自身を相対化する視点は欠かせないが、それではそもそも人は何故ゲームに情熱を燃やすのかという疑問に答えることは永遠にできない。その一方で自己実現なるものをゲームに投射しようとする限り自身をゲームの一部に同化させ、結果としてシステムに踊らされる存在と成らざるを得ないことも確かなことだった。  仁は何を考え、何を求めてあの女の誘いに応じたのだろうか——。  俺は|虐殺の橋《スローターブリッジ》の袂に立ってその彼岸を見つめている仁の姿を思い浮かべていた。  橋の向こう側に何があるのか。  仁にはそれが見えていたのかもしれない、そんな気がしてならなかった。 「特Aの存在は確認されていない……」  俺はムライの言葉を繰り返した。 「それを確認できない限り、原因不明の現象をさらに根拠のない存在に関連付けて説明する愚を犯すだけだ。そう言ったな」 「言った」  それがどうした、といった口調でムライが答えた。 「接続した者は二度と戻らない不帰の王の領地……そんな所が本当にアヴァロンのフィールドに存在するかどうか、それを確かめる方法がひとつだけある」  ガーランドがグラスから顔を上げて俺を見た。 「お前……」 「ああ。あの橋を渡ってみればいい」  仁に何が起こったのか、それもあの橋を渡ることで判る筈だ。 「ムライの言うとおり状況証拠をいくら積み上げたところで何も判りゃしない。あの橋で何が起きたのか、あの女が何者なのか。それを知るためにはあの橋を渡ってみるしかないのさ」  ガーランドの口元が歪み、俺を見る眼が悪戯を思いついた子供のように輝いた。この男が為すべきことを見出したときの典型的な反応だった。  俺はムライに向き直って先を続けた。 「な、アヴァロンの設計者たちは紛れもない天才だ。常々そう思ってプレイしてきたと、あんたそう言ったよな」 「言った」 「一見不可能に見えても実は攻略可能な絶妙のゲームバランスだと」 「言った」 「だがあの戦場《フィールド》のバランスの悪さだけは解せない。そうも言ったな」 「……何が言いたい」  やはりムライもまたそのことに気づいていたのだ。 「完璧な筈のアヴァロンのゲームバランスが、こと虐殺の橋に限って何故ああも悪いのか。これだけのシステムを作り上げた開発者たちが意味もなくそんなフィールドを放置しておく筈がない。つまりあの橋が過剰殺傷《オーバーキル》に設定されているのはそこに秘められた意図があるからだ、そう考えることによってしか説明がつかないことになるんじゃないのか」  口を挟もうとしたムライを制して俺は続けた。 「あの女の言葉を信じるかどうかは別として、現に橋を渡ろうとした仁は帰還していない。これは奴が橋を渡りきった可能性が高いことを傍証している。そう思わないか」 「論理的にはその通りだが問題がひとつだけある」  ムライが酒を注ぎながら口を挟んだ。 「どうやって渡るんだ。その実現の可能性についても俺たちは同意した筈だ。携行火器のみであの橋を渡ることは不可能だとな」  一口飲んでつづけた。 「試してみたいのなら止めんが、俺は勝算のない特攻《バンザイアタック》につき合う気はない」 「誰も手前《てめぇ》に頼んじゃいねえ」  そう喚いてはみたものの、さすがのガーランドも二の句が継げずに酒瓶に手を伸ばすしかなかった。 「完璧に攻略不可能な要害なら設置する意味もない。システムの裏を掻くのはあんたの十八番だったんじゃないのか」  ムライは円卓の上に置いたグラスを見つめたまま動かなかった。  が、やがて起ち上がると上着の内ポケットから紙幣の束を取り出して卓上に置いた。 「なかなか面白い話を聞かせて貰った。この金に見合うかどうかは判らんが」  そう言うなり客室の入口へ向かい、残された俺とガーランドは再び差しで飲み始めた。 「あの野郎、あれで昔は結構使える司教だったんだぜ。信じられるか」 「あいつがか……だが俺が組んだときは」 「クラスチェンジしたのさ、戦士に」 「本当か」  初期レベルのプレイヤーならともかく、上級者の階級変更《クラスチェンジ》はまず滅多にお目にかからない。新たな階級に挑むためにはそれまでの投資を全て諦めなければならないからだ。金はともかく、長い時間をかけて獲得した能力を喪うことがプレイヤーを躊躇させる。 「頑固な野郎さ。八年分の経験値をドブに捨てやがった」  ムライにそうさせる何があったのかは知らないが、おそらくその何かがムライとガーランドを決別させたのだろう。ガーランドの口調には懐かしさとともに癒しがたい怒りが込められているような気がした。 「ところであの女だが」  ガーランドが俺のグラスに酒瓶を向けながら訊いた。 「あの赤毛の女魔導師……お前の何なんだ」 「それを聞いてどうする」 「興味があるだけさ。実はタイプなんでね」  俺はガーランドが満たしたグラスを口に運び、その中味を口に放り込んでから答えた。 「仁の女だ……いや女だった」  ガーランドは少しの間ぼんやりとした表情で俺を眺めていたが、すぐに顔を逸らして頭をボリボリと掻き毟った。 「余計なことを訊いちまったらしいな」 「言っとくが愉しい話じゃない」  なぜ話す気になったのか俺にもよく判らなかったが、口に出してみると隠すほどの事でもないような気がした。あるいは酔いが回り始めていたのかもしれない。 「あの女も仁の心酔者の一人だったのさ、俺がそうだったように……」  仁を間に挟んだ俺たちの関係はうまくいっていたと思う。俺とあの女は敬愛すべき長男を頭上に頂いた兄妹であり、やがて強力な魔女に成長するであろう鼻っ柱の強い妹はパーティー全員の貴婦人《バード》でもあった。その関係が微妙に変化したのは、あの女が護身用の短機関銃におさらばしてRPGを装備するレベルに達してからだった。 【アヴァロン】の装備火器として最強の部類に属するRPGは、その破壊力の代償に凄まじい発射音と後方噴煙《バックブラスト》を伴う。俗にRPG使いに友人はいないという言葉があるが、それは敵にとって最大の脅威であり秘匿性に欠けるRPGの射手の周辺に攻撃が集中しやすい事情に基づいている。それ故にどこのパーティーでも、貴重な魔導師《メイジ》には必ず特定の掩護者をつけて生還を期させる。 「そして仁が掩護者として指名したのが俺だった」  ガーランドは促すこともなく、時おりグラスを傾けながら無言で聞いていた。 「戦場での役割と現実を混同する……ロールプレイヤーにありがちな錯覚さ。ペアを組むうちに信頼関係と恋愛感情の区別がつかなくなり、あいつはオレの部屋に泊まるようになった。それが錯覚に過ぎないと気づいた時には、すでに二人の関係は仁の知るところになっていた」 「よくある話だ」とガーランドが呟き、 「よくある話さ」とオレも応えた。  よくある話を性懲りもなく繰り返すのが人間の救い難いところだが、それにしても我ながらよくある話としか言いようがなかった。 「で、お定まりの殴り合いか」 「ところが仁は俺たちを許し、それどころか祝福さえしてくれたのさ」  ガーランドが眉を顰めた。 「ヤな野郎だ。オレなら半殺しにする」 「オレもだ」  実際、そうしてくれればまだ修復の余地はあったのかもしれない。  俺たちの関係は完全に宙に浮いていた。  仁という最高の同伴者を失った女は俺を憎み、俺もまたこの世でただひとり尊敬していた友人を永遠に失った。  そんな二人が戦場でペアを組んで戦える筈もなかった。俺の掩護はおざなりになり、女の不用意な発砲に俺が巻き添えを喰うことが繰り返された後にあの事件が起きたのだ。 「何ということもない戦場だった。当時の俺たちの実力からいえばクリアはともかく、それなりの戦果をあげて引き上げられる。誰もがそう思っていた」  信じられないような仁の誘導ミスだった。  狭いアーケードを抜けて撤退しようとした俺たちは前後から突然挟撃を受け、さらに拙いことに女の放ったRPGで擱座した装甲車が退路を塞いでしまっていた。仁は防御を命じたまま沈黙し、完全に包囲された俺たちを待っているのは壊滅だけだった。  だが壊滅するだけならまだ救いがあった。 「見ちまったのさ……振り返ると掩体物の陰から仁が俺たちを眺めていた。銃弾が至近を飛び交う中でだ。誰が真っ先に逃げ出すか、誰が撤退するか……ぞっとするような目つきだったよ」  グラスに僅かに残っていた液体を俺は飲み干した。 「で、どうなったんだ」 「全員が撤退し、パーティーは解散。俺は女と別れて傭兵になった」  ガーランドがゆっくりと瓶を逆さに振って「酒がない」と呟き、俺は煙草を咥えた。  仲間を恃む者は必ず逃げる——。  俺はいつかガーランドがあの女から聞いたという言葉を思い出した。  灰色の貴婦人にも、あるいはそんな経験があったのかもしれない。 「完璧な人間なんざ何処にもいやしねえ」  ガーランドが疲れきった声でそう言った。 「そんな人間が集まってみたところで完璧になれるわけもねえ。当たり前の話だと思わねえか」 「全くだ」 「だったらそんな野郎のことは忘れちまったらどうなんだ。会って恨み言のひとつも言いてえのか」 「いや」  そんなことは考えたこともなかった。  恨むというよりはむしろ—— 「恨んでいない……それを伝えたいのかもしれない」  少なくとも俺は人を試みることなく生きてこれたのだから。  ガーランドが小さく笑った。 「面倒な野郎だ」  勢いよく起ち上がって服のあちこちから手品のように紙幣を引っ張り出した。 「お前も全部出せ。ムライのと合わせて余った分を全部飲んじまおう」  現金を取り出すために席を起った俺は、ブローニングの座っていた椅子の上に置かれた一冊のハードカバーに気づいた。  手にしてみると、この御時世に珍しいクロス張りの表紙に擦れかけた文字でこう記されていた。 『PREIDDEU ANNWFN』 [#改ページ] プライデイ・アンヌウフン   1 『|PREIDDEU ANNWFN《プライデイ・アンヌウフン》』は古代ウェールズの同名の詩篇に関する研究書であるらしかった。 「ANNWFN《アンヌウフン》」はときに「ANNWN《アンヌン》」と記されることもあるが、これは北方系の神話や伝承の世界では「他界」の伝統的な名前であったらしく、この詩篇の題名も「あの世の掠奪」あるいは「他界への遠征」といった意味になるらしい。  作者であるタリシエンはその人自身が伝説上の人物でもあり、さらに詩篇の中に登場するアーサーに率いられた遠征隊のメンバーのひとりでもあったとされているが、肝心の詩篇自体はどのページを繰っても紹介されておらずその論旨から想像するしかないのだが、 要するにアーサーの行なった「あの世」への悲劇的な遠征を描いたものと思われた。  アーサーは三隻からなる船団を率いて遠征の途に就く。その目的は「あの世」を治める人物の所有する「大鍋」を掠奪することにあったと想像されるのだが、結局無事に帰還したのは七人だけだった——そういった物語だ。  この物語には様々な原型やら別版が存在するらしく、著者はそれらの中から幾つかの例を挙げていた。  そのひとつ、「マビノギの四分枝篇《ビノギオン》」と呼ばれる物語集に収められた第二枝篇の中の「トルュールの娘ブランウェン」によれば、前記の物語はこうなる。  祝福《ベンディゲイド》されたブランは「強者の国」すなわちブリテンの王だった。その妹のブランウェンはアイルランド王マソルフウフに嫁いだが、そのときブランはマソルフウフに自分の所有する「大鍋」を与える。まあ持参金のようなものだったのだろうが、この大鍋はその中に死体を投じればたちまち息を吹き返すという一種の蘇生装置だったらしい。ところがブランウェンは嫁ぎ先で恥をかかされ冷遇され邪慳な扱いを受け、これを耳にしたブランは妹を救出しアイルランド人に報復を加えるためにブリテンの戦士団を率いて船出する。このときブランの恰幅はあまりに巨大だったので彼の従者たちは船で渡っているのに彼自身はその横をただ歩いて渉っていくだけだったとされているが、ブランが巨人であろうとなかろうとそれはどうでもよろしい。  興味深いのはここでいう「アイルランド」が「あの世」を指していたらしいという著者の指摘だった。  物語は上陸したブリテン戦士団とアイルランド軍の激戦でクライマックスを迎える。何せアイルランド軍は驚異の蘇生装置「大鍋」を持っているので、その中へ戦死者を放り込むと翌朝には勇敢な戦士となって復活するのだからたまらない。ブリテン側は大苦戦するのだが、一人の英雄がこの大鍋の破壊に成功して最終的に勝利を収める。犠牲は甚大で生き残ったのは僅か七人、ブラン自身も毒槍で足を負傷する。  生き残った七人という数はこの型の物語ではしばしば反復される数字らしく、アーサーの最後の戦場となったコーンウォールのカメル川に架かる「虐殺の橋」の戦いでも生き残ったのは七人だとするウェールズの伝説が紹介されていた。  ブランの足の負傷というモチーフが例の「聖杯伝説」の不具王や漁夫王の原型になっているという著者の指摘があるがこれはこの際どうでもよろしい。俺が注目したのは、負傷したブランが生き残った七人の英雄に自分の首を刎ねさせて一緒にあちこちと愉しい旅をしたという件りだった。生きている首というモチーフはケルトの伝説では頻繁に現われるらしいのだが、彼もまた「再来を待たれる英雄」であり「眠れる英雄」の一人だったのだ。しかも話はそれで終わりではない。コーンウォールの民間伝承によれば、アーサーは死後大鴉になったとされているが、ブランという名の意味するところはまさにこの「大鴉」なのだと著者は指摘していた。  俺は終端標的《フラグ》の「大鴉《ブラン》」を思い浮かべた。仮想現実の戦場《フィールド》でプレイヤーを殺戮し続ける最強の攻撃ヘリをいつ誰が大鴉と呼ぶようになったのか俺は知らないが、戦死者を繰り返し蘇生する「大鍋」は直ちに【アヴァロン】のシステムを連想させた。 「大鍋」に関しては、同じく別版として紹介されていた「キルフウフとオルウェン」の物語にその記述が見出せた。  著者によればこの物語は「ウェールズにおける最初期のアーサーの物語」であり「それは四分枝篇《ビノギオン》においてアーサーを扱う五つの物語の第一番目のものであり、しかも五つのうちの三つがそうであるような外国からの影響を全く受けていない純粋にウェールズのもの」らしいのだが、「大鍋」の異訳であるらしい「大釜」の掠奪の物語は主人公であるキルフウフにかけられた十四番目の試練または課題であり、本人に替わってアーサーによって果たされることになる。  アーサーはアイルランド王の息子オドガルの元へ使者を送り、彼の執事長であるディウルナッハの大釜を求める。アーサーの強力な軍事力を知悉しているオドガルはディウルナッハに求めに応じて大釜を引き渡すように頼むが、ディウルナッハは「ちょっと見せるくらいならともかく、あんな野郎に引き渡すなんてとんでもねえ話だ」というようなことを言ってこれを断固拒否する。途中経過はまけてもらうが、アーサーはオドガルの軍を一蹴してディウルナッハの館に乗り込む。ディウルナッハはこの期に及んでも「もし誰かに渡すとしても自分はオドガルの言葉に従って渡すだろう」と未練たらしく答え、アーサーの部下のひとりであるレンレアウグにあっさり殺される。アイルランド軍が到着してこれとも交戦するが、アーサーとその部下たちはこれを完全に打ち破って「アイルランドの宝物で一杯の」大釜とともに帰還する。  ここで著者は「大釜」の使用目的がキルフウフの結婚式の客のために肉を煮ることにあったと言及し、「肉を煮る」という行為が懐胎の象徴であり「破壊しかつ産み出す」女性的な要素の巨大な力であることを暗示し、「アンヌンの頭領が持つ大釜は臆病者の食べ物を煮ることはない」という別の詩篇の一節を併せて紹介していた。  大釜すなわち子宮であり、女性原理の象徴というありがちな指摘はともかく、俺の目を引いたのは「大釜に充てられている女性的なるものの力が、これから起こる猪との戦闘すべてにおいて英雄にとって必要となるのである」という末尾の一文だった。  これから起こる猪との戦闘、とはいったい何を意味しているのか——。  俺はそこまで読み進んだところで強烈な空腹感を覚えて本を置いた。  昨夜のガーランドとの痛飲が祟ったのか、最悪の状態で目覚めた俺は何も喰わぬまま持ち帰ったハードカバーを読み耽っていたのだが、すでに時刻は日没を過ぎて数時間を経過していた。集中的な読書はそれがたとえ二日酔いに痛めつけられた胃袋であっても強烈な空腹感を誘う。  配食所に並ぶ気力は端からなく、俺はのろのろとベッドから体を起こして食事の支度を始めた。  食品戸棚として使用している電子オーブンから冷凍乾燥米と乾燥野菜の箱を取り出し、軽金属製の調理鍋《ポッド》に適量をザラザラと放り込んで固形スープと水を加える。  いつもと同じイヌ飯を作るつもりだった。  昨夜の豪勢な中華料理に比べれば泣きたくなるような食事かもしれないが、イヌ飯にはイヌ飯の良さがあるので俺は毎日食っても飽きるということがなかった。それに手持ちの現金の全てを一晩で使い果たしてしまったので、当分の間は配食所に並ぶか部屋で自炊する以外に選択肢もなかった。  電源端末《コンセント》からケーブルを引き出して繋ぎ、出来上がるのを待つ間に俺は再びベッドに転がってハードカバーを開いた。  ブローニングが置き忘れていったそのハードカバーには奥付も何もなく、著者名すら印刷されていなかった。この御時世に地下出版でもないから、おそらく著作権を無視した複製本なのだろう。その原本がいつどこで誰によって書かれたのか、脚注に記された引用文献の年代から前世紀の出版物と推定される研究書を俺は再び読み始めた。  中世ウェールズ文学の中心作品で最も有名なウェールズの物語の例は、「マビノギの四分枝篇」である。十一世紀後期の教養あり感受性豊かな著者=編集者の業績であるこれら四篇の物語は、ウェールズとブリテンの伝説の神々を主人公にしている。同時に、彼らの証言を解釈するのは、容易なことではない。一例を挙げれば、「四分枝篇」の著者と、彼がその仕事を引き継いだ語り手の先人たちは、統一された神話の豊富な資料を利用するどころか、なかば忘れられた断片的な伝説の散らばった残滓だけを好きなように取り扱い、これを一連の国際的な説話の主題と織り混ぜて現存する叙事物語を最終的に作った、と思われる節があるからである。そして、最終的な著者=編集者の手際の良さにもかかわらず、若干の物語の筋書きは、曖昧な点の多いことや首尾一貫性を欠くことによって、主人公の複合的な性格と食い違うところを見せている。このような材料処理を繰り返し、異質の説話的要素を絶えず同化したため、ブリテンの神話的伝統に属するとしてもよい物語は広がりすぎてしまった。だから、その物語の型だけをブリテンのものとして切り離して扱うことは、容易なことではない。確かに、ブリテンの伝承から派生する要素は、たくさんある——楽しい他界の滞在、他界への侵攻、不毛の地、人間の英雄の援助を求める他界の支配者……  他界の滞在、他界への侵攻、不毛の地……と俺はその言葉を口にし、虐殺の橋の袂で対岸を遠く見渡している仁と、その傍らにひっそりと影のように従う女——灰色の貴婦人の姿を思い浮かべた。  灰色の貴婦人とはアーサーの宝物を守護する幽霊の名前だ、とムライは言っていた。  あの女がその名の示す通りの存在だとするなら、向こう岸に存在するかもしれない特Aの戦場こそアーサーの宝物である「大釜」の置かれた「他界」ということになるのだろうか。 「破壊しかつ産み出す巨大な力」に充ちた「他界《アンヌン》の頭領が持つ大釜」は「臆病者の食べ物を煮ない」すなわち撤退することを許さない場所のことではないのか……いや、そもそもアーサーの最後の戦場である「|虐殺の橋《スローターブリッジ》」で生き残った者もまた七人だった。だとするなら「虐殺の橋」こそ「|他界への侵攻《プライデイ・アンヌウフン》」を象徴する場所だということになる。  だがそれではこちら側の戦場《フィールド》は一体何と呼ぶべきなのか。戦士が無限の生死を繰り返す【アヴァロン】の戦場こそ他界と呼ぶに相応しい世界であり、「他界への侵攻」とは現実から戦場《フィールド》への接続のことでなければならない。  もし他界に接続されたもうひとつの「他界」があるとするなら、それは——  俺は頭をひとつ振って混乱した思考から現実に戻った。  考えてみれば【アヴァロン】の世界がその名前からしてアーサー王の物語を始めとするケルト的な意匠と修辞の暗合に満ちているのは当然だった。だがその暗合が現実の世界にまで及ぶと考えるなら、それはもはや妄想と呼ぶしかない。  コトコトと何かを叩くような音がして、俺は手にしたハードカバーを伏せて床に置いた調理鍋に目を遣った。  スイッチはとうに切れていて微かな湯気とともに美味そうな匂いが漂っていた。  ベッドを降りて手を伸ばしかけたとき、再び先程の音が響き、俺はようやくそれがドアをノックする音であることに気づいた。  俺の部屋を訪れる者などいる筈がなかった。  調理鍋に手を伸ばした姿勢のまま、俺の頭は凄まじい処理速度で俺の乏しい人間関係のリストを検索していた。  ガーランドと言えども俺の部屋の所在は知らないし、他の連中に至っては端末以外で顔を合わせることも殆どない。アパートの住人との付き合いも絶無だったから隣人が醤油を借りにくるなどは論外だった。  一瞬だけ例の【親衛戦車連隊】にヤサを割り出されて襲撃をかけられる可能性を検討したが、あれだけ痛めつけられた連中が活動を再開するには早すぎた。  この数年間で俺の部屋を訪ねたことのある人物といえば一人しかいない。  俺は全財産を一夜にして使い果たした昨夜の強制的豪遊を思い出し、その途端に復讐の権化と化してドアまでの距離を三歩で走破して一気にドアを開けた。  赤毛でない女が立っていた。  黒い短髪が妙に目立つのは、その髪に混じった幾筋かの銀髪との対照がそう思わせるのかもしれない。薄いフレームの眼鏡を掛け、その下から俺を見つめている目が恐ろしく印象的だった。どこの国のものとも知れぬ男ものの軍用コートを着ている。  茫然と立ち尽くしている俺の傍らを擦り抜け、灰色の貴婦人は躊躇なく部屋に踏み込んだ。  我に返った俺がドアを閉めて振り返ると、女は興味深そうに室内を眺め渡していた。 「|いい部屋ね《ナイスルーム》」  引っ越して来て以来ただの一度も掃除をしたことのない俺の部屋がナイスな訳がなかった。  俺は咄嗟にどう対応すべきか迷ったが、まず順当な詰問から入ることにした。 「どうやってここに来た」 「|求めよ、さらば與えられん《アスク、アンド ユー ウィル レシーブ》。|尋ねよ、さらば見出さん《シーク、アンド ユー ウィル ファイン》。|叩け、さらば開かれん《ノック、アンド ドア ウィル ビ オープン トゥ ユー》……」  微笑を浮かべて冗談のように言い、真顔になると流暢な日本語で続けた。 「あなたのことは調べさせて貰ったわ」  女は顎を引いて眼鏡を外し、再び顔を上げて正面から俺を見つめた。  僅かな変化だったが、それだけのことで女は驚くほどの変貌を遂げていた。妙な言い方かもしれないが——薄皮を剥いで美人の本性を露わにした、そんな印象だった。 「調べるって……俺の何を調べたんだ」  女の凄まじいほどの美貌に気圧されまいと、俺は臍に力を矯めてその双眸に対峙した。 「傭兵としての能力、装備、戦歴、かつて所属していたパーティーとその解散の経緯……周辺の端末で私の行動を嗅ぎ回ったこともね」  俺はどきりとして思わず体を硬くした。  一瞬これは俺の索敵行為に対する女の先制奇襲なのではないかという考えが脳裏に浮かんだ。ガーランドなら大歓迎すべき状況なのだろうが何しろ俺は剥き出しの暴力が苦手だったし、まして女を殴るなどという行為に堪えるほどの根性もない。いや仮にいっさいの心理的負荷なしに渡り合ったとしても単身で乗り込んできた女に勝利できるかどうか怪しいものだったし、それこそガーランドの言い草ではないがベッドで決着をつけるなどは論外だった。  がしかし、女は俺を呪縛していた双眸を逸らすとベッドを除けば部屋でただひとつの調度である合成皮革張りのソファを顎で示して「いいかしら《メイアイ》」と小さく呟き、俺の返事も待たずにコートを脱いだ。  どうやら最悪の事態は回避できたらしい。  暴力的手段の行使を伴わぬ対決なら望むところだったし、この女に訊きたいことはそれこそ山とある。  再び湧き上がってきた戦闘意欲とともに空腹感も復活し、俺は床の調理鍋《ポッド》を拾い上げて女に言った。 「食事にとりかかるところだった。話は喰いながらでもいいか」 「勿論《オフコース》」  女の許可を得た俺は流し台から最もマシと思えるスプーンを掘り出し、小走りに戻るとベッドに胡座を掻いて喰い始めた。  深々とソファに体を預けた女が重そうな軍靴を膝に乗せて煙草を咥え、ジッポを鳴らして火を吸いつける。女らしさなど微塵もないが美貌はあらゆる意味でお得であり、そんな仕草がまで妙に新鮮に映った。  女には喰いながらと言ったが、先にも触れたように俺は飯を喰い始めると止まらない。 どうせ一分とかからぬ食事だし、喰い終わってから対決した方が密度も濃くなると判断して一心不乱に喰いつづけた。イヌ飯は美味であると同時に単調でもある。俺は何かトッピングが欲しいと思ったが、さすがに席を外して取りに行くことの間抜けさを想像して我慢した。  様々な思惑の錯綜する食事を面白そうに眺めていた女が床に転がっていた半透明の瓶を拾い上げた。例のクレイモアだ。小さく振って中味を確認すると、俺に向かって首を微かに傾げる。 「そいつは強いぞ」と俺は忠告したが、女は片手でキャップを器用に外して一気に呷った。この女が酔い潰れたら——と一瞬だけ不埒な思考が脳裏を過ぎったが、女は紫煙とともに太い息を吐いてニヤリと不敵な笑いを浮かべてみせた。酒にも滅法強いらしい。  隙あらば事に及ぼうなどという下心も気力もなかったが、俺は怯んだ内心を悟られまいと空いた鍋にスプーンを放り込んで戦闘態勢に入った。この期に及んでトランクスにランニングシャツというセクハラ仕様の装備であることに気づいたが、男の部屋に突然乗り込んできた女に気を遣う必要はないと考え直して無視することに決めた。  地元優位の原則は特に防御戦闘時に威力を発揮する。 「さて」と俺は座り直した。 「俺に何の用があるのか知らんが俺もあんたに訊きたいことがたんとある。どちらからにする」 「明日の夜、あの端末での最後の作戦に接続する。接続先は廃墟R66【虐殺の橋】。あなたを私の主宰するパーティーに召する」  一切の駆け引きを踏み越えて女がいきなり切り出した。 「どうする《イエス オア ノウ》」 「……ちょっと待て」  じっくり渡り合おうという目論見を一撃で粉砕されて俺は慌てた。 「契約の条件は知ってるわね」 「しかし……なぜ俺なんだ」 「あなたのことは調べさせて貰った、そう言った筈だけど」 「俺はまだあんたのテストも受けていない」  女が口元を僅かに歪めて笑った。 「必要ないと判断したからよ……あなたは逃げない」 「あんたに俺の何が判る」  俺の立場からすると妙な反論だが、一方的に決めつけられるのは不愉快だった。  女が二本目の煙草に火を点けた。一本目の吸殻は魔法のように消滅していたが、ヘビースモーカーにはこの手の魔法使いが多い。 「私の司教《ビショップ》もパーティーを見捨てた」  その口調には何の感慨も込められていなかったが、俺の目を覗き込んだ女の双眸が一瞬ぞっとするような冷たい光を帯びたような気がした。  女の言う私の司教が何者かは知らないが、少なくともこの女が仁の裏切りとワイバーンの解散の経緯を知っていることは確かだった。そしてそれを女に語り、この部屋の所在を教えた人物が誰かといえば俺には一人しか思い浮かばなかった。新たに湧き上がった怒りをこらえて俺は女に訊いた。 「その司教《ビショップ》はどうなった」 「SA《エスアー》に接続してロストしたわ」 「で、あんたも特Aに接続した」 「ええ《ターク》」 「そこで再会して殺っちまった」 「ええ《ターク》」  それが母国語らしい言葉で躊躇なく答えた。 「俺は仁の奴を恨んじゃいない」 「私もね」  あの冴えた眸が俺の目を覗き込んでいた。 「でも会わなければならない……たとえ未帰還になったとしても」  この女もまた間違いなく【アヴァロン】の魔女《ウィッチ》の一人に違いない——俺は頭の中に響く呪文のような声を聞きながらそう思った。 「俺の腕はあんたほどじゃないかもしれんぜ」 「あなたのFALもそう捨てたものでもないわ。遠射で勝負するための状況判断は戦場では何より重要な能力よ。それにあの橋を渡るには戦闘能力よりもむしろ動機が必要なの。彼にはそれがあった」 「奴は……仁は何のために渡ったんだ」 「本人に訊いてみることね」 「パーティーの編成は」  俺の腹はすでに決まっていた。どうせ渡ると決めた橋だった。同じ渡るなら仁と同じ条件に越したことはないし、女の召はまさに渡りに舟という奴だった。 「私の他に戦士《ファイター》二人と魔導師《メイジ》が一人。あなたをいれて五人」  女がコートを手に腰を上げた。 「明日24時。【高射砲塔《フラツクタワー》22】で待ってるわ」  部屋の入口へ向かい、ドアを開けるとクレイモアの瓶を軽く振ってみせた。 「ありがとう《ジンクイエン》」   2 【高射砲塔22】は戦場内での集合やパーティー間の会合に用いられる緩衝地区《ニュートラルゾーン》のひとつだった。  その外観は前世紀の大戦でドイツ軍がウィーンに建造した高射砲塔を模していて、一〇〇メートルを越える鉄筋コンクリート製の塔の中層に二〇ミリ四連装高射機関砲架《FLAK》四基を設置した回廊が張り出し、屋上に相当する主砲座には88ミリ高射砲の砲架が置かれている。射界を分担して正六角形の頂点に配置された六基の塔と内陣の射撃管制を行なう射撃管制塔三基が瓦礫と化した市街に陰惨なシルエットを林立させていたが、実際にはそのほとんどが巧妙に配置された模像《ダミー》であり、その内部空間へ接続可能なのは【高射砲塔22】と【高射管制塔27】の二基だけだった。  黄昏の空に屹立する異様なシルエットを見上げ、俺は【高射砲塔22】に足を踏み入れた。  塔内は中央を貫いた複雑な形状の揚弾機が遥かな頭上の闇に消え、内壁から重層的に張り出した|格子状の床《グレーチングフロア》の間を螺旋状に巡らされた回廊が繋いでいる。  この狭い塔の内部ではFALは役に立たない。俺はスリングに肩を潜らせてFALを背中に回し、腰のホルスターからバックアップのPPKを抜き出して送弾した。緩衝地区では敵は出現しないことになっているが、そんなことを信じるプレイヤーはもちろん存在しなかった。  内壁を伝う螺旋状の階段を辿って中層のフロアに出ると、壁に穿たれた換気用の隙間《スリット》から射し込む光の中に雪片のように羽毛が舞っていた。どうやら中層から上は鳩の巣窟になっているらしく、格子の床を踏む足の運びに連れて重さを持たぬかのように羽毛が舞い上がる。独特の苦悶するような啼き声と羽叩きが頭上に響いていたが、その姿はどこにも見えなかった。  周囲を警戒しながら揚弾機を回り込み、傾いだ防弾鋼板製の扉の隙間から外周回廊に出ると世界が一変した。  黄昏の廃墟の壮大なパノラマだった。  もはや境界線も定かでない天地の間がそのまま巨大な半球を成して全天を覆い、隣接する高射砲塔の列線は遠くなるに連れて濃密な大気に霞む。その禍々しいシルエットの周囲を夥しい鳩の群れが旋回していた。  模像とポリゴンによって造形されたこの人工の景観は、ただそれを眺めるだけのために接続しても惜しくないほどの眺めだった。永遠の黄昏の下に広がる廃墟と朽ち果てた高射砲塔を周回する鳩の群れ——それは【アヴァロン】の設計者たちの陰鬱な世界観を象徴するものであると同時に、かつてあり、かくの如くなり、そしてやがて訪れるであろう廃墟の本質を余すところなく映し出す最期の光景でもあった。  このままここに佇んでいたいという思いを圧して塔の外壁に沿って進むと、中空へ向けて巨人の腕のように突き出されたテラスに出た。その先端に据えられた四連装高射機関砲架の射手席に、見たこともない黒い戦闘服に身を包んだあの女が浅く腰掛けて彼方の空を眺めていた。  それは他の誰がそこに居るよりもこの光景に相応しい——俺にはそう思えた。 「ここに来てからああして空を眺めてるだけで一言も喋らねえ」  振り返るとM1を担いだガーランドが手摺に凭れて俺と同じように女を見ていた。  あらためて俺に顔を向けると失望したような声で言った。 「あんまり驚いてねえ面だな」  事実、半ばは予想していたのでそれほどの驚きはなかった。なにしろ動機という点で言うならガーランド以上に真っ当な動機を持つ者も他にいない筈だし、この男の戦場でのタフな働きぶりは傭兵たちの間でも定評がある。あの女にプレイヤーを見る目があるならまずは順当な人選と言うべきだった。 「本当にいいのか、ロストして施設送りになると女が泣くぞ」 「あの女《アマ》、店タタんで逃げやがった」  さして惜しくもないといった表情で続けた。 「知らないうちに店も抵当に入ってた。もう借金と受給カードしかねえ」  失うべき何物もないといった風情だったが、むしろこんな男に今まで尽くしてきた女を誉めるべきなのかもしれない。 「残りの二人は誰だ」 「俺とお前は30口径とはいえ半自動《セミオート》だし、せめて一人は全自動か分隊支援火器が……」  言葉尻を呑んだガーランドの目線を追うと、回廊の反対側からTH64を下げたムライが歩いてくるところだった。 「妙な野郎を選びやがったな」とぼやくガーランドの口調は言葉ほどには失望が感じられなかった。 「勝算のない特攻《バンザイアタック》には反対じゃなかったのか」  相変わらずの仏頂面でムライが隣に並んで手摺に凭れた。 「あれからいろいろ考えてみたんだが」 「何か裏技でも思いついたのか」と口を挟む俺を無視して言葉を継いだ。 「ひとつ思い出したことがある」 「今度は何を思い出したんだ」とガーランドが例によって何も期待していないという気分をあからさまにした口調で言った。 「数年前に検索した情報だ。欧州領域に当時最強を謳われたパーティーがあった」  ムライは少し間を置いてその名を口にした。 「【魔術師《ウィザード》】……聞いたことがあるか」 「知らねえな」とガーランドが即答した。  俺も記憶になかった。  ネットワークゲームではあっても膨大な負荷のかかる【アヴァロン】のような体感ゲームは、その回線を幾つかの領域に分けて管理している。プレイヤーであっても領域外の情報に関しては意外に疎いのが普通だった。 「あったってことは、つまり解散したってことか」 「あちらでは半ば伝説として語り継がれているパーティーなんだそうだ。その解散についてもいろいろと憶測を呼んだが、詳細は未だに不明。何しろ強かったらしい……前衛も強力だったが指揮者だった司教が天才的な戦術家で、こいつがシステムの裏をかくのを得意技にしていた」 「お前みたいな奴か」とガーランドが茶々を入れた。 「俺にそいつ程の才能があればクラスチェンジなんぞしちゃいない」 「それで」と俺が先を促した。 「このパーティーの中に一人変わり種がいた。SVD《ドラグノフ》を装備した凄腕の女狙撃手で、その髪に混じった銀色のメッシュから【灰《アッシュ》】と呼ばれていたそうだ」  俺とガーランドは思わず息を呑んでテラス上の女を見上げた。  地上から吹き上げてくる風に女の短髪が舞い、銀色のメッシュがひときわ鮮やかに映った。 「その司教……マーフィーって男だが、そいつの奇抜な戦術も女の狙撃の腕があってこそのものだったらしい」 「そいつが……いったい何故こんなところにいるんだ」  にわかに色めきたったガーランドがムライに詰め寄った。 「そのウィザードの解散なんだが、指揮を無視した戦士の撤退が原因でパーティーが壊滅し、それがしこりを生んで解散に至ったのだと、そういう説もあるそうだ」 「そんなことは訊いちゃいねえ」とガーランドが喚いたが、ムライは耳のないような顔で淡々とつづけた。 「解散後メンバーは離散した。指揮者だったマーフィーと狙撃手のアッシュは単独で接続していたそうだが、ほどなくマーフィーが特Aに接続して未帰還になり、その後を追ったアッシュもロストした」 「そのロストした女が現に目の前にいるじゃねえか。それともあの女は本物の幽霊だってのか」  それを知りたいのは俺も同様であり、そしてムライもまた同じである筈だった。 「俺が思い出した情報は以上だ」  いつの間にかムライもまた風に吹かれる女の姿を見つめていた。 「思い出したって言ったよな」と俺。 「言った」とムライ。 「昨日あの女に召されてから検索したんじゃないのか」 「……実はそうだ」  ムライはあっさり白状すると俺に向き直って言った。 「だからここに来る気になった。理由は二つある。仁という男だけならともかく、三人が三人とも特Aに接続してロストし、しかもそのうちの一人が生還しているとなると特Aという戦場におけるロストには特別な意味があると考えざるを得ない」 「特別な意味って……」 「特Aは単なるクラスAの上級領域ではないのかもしれない、そういうことだ」 「何を言ってるのか判らねえ」とガーランドが俺とムライの会話に割って入った。 「もっと掻い摘んで判り易く話せ」 「クラスCは要するにコンバットシューティングの体感バージョンのようなものだ。クラスBもそれに集団戦闘の要素が加わっただけで、要するに高度なシミュレーターであるに過ぎない。確固とした世界観に基づいて限りなく現実に近い環境、いや現実そのものを作り上げたクラスAこそ【アヴァロン】の目指した世界であり、その最終的な成果だと言っても過言ではない」  常々その完全性を説いていたムライらしい論法だった。 「単に現実感の精緻化を図るならクラスAの改良で済む筈だ。敢えてクラスAの上位に特Aを積み上げる必要がどこにある……いや、クラスA以上のどんな上位概念を持ち込んだら特Aというフィールドが可能になるのか。俺が特Aの存在に疑問を呈してきたのはそういう疑念があったからだ」 「もっと派手にやれるような戦場かも……」とガーランドが不満を口にすると、ムライは手にしたTH64を掲げてみせた。 「俺たちが手にしている武器がなぜ携行火器に限定され、しかも前世紀のそれに設定されているか考えたことがあるか」 「これ以上の武器を装備すれば戦闘から現実感が失われる……」  俺はムライの言いたいことを朧げながら理解し始めていた。 「ミサイルを撃ち合うような戦場のどこに現実感がある。個人の戦技や能力を最大限に発揮できるぎりぎりの設定がこれなんだ。携行火器を基本とする歩兵戦闘……これ以上の設定はシミュレーターに逆戻りすることになるし、そもそも戦士の復活という【アヴァロン】の基本的な世界観を覆すことにしかならない。クラスAが最終的な成果だと言ったのはそういう意味だ」 「だとすると……特Aってのは一体どんな戦場なんだ」 「撤退不能だの法外な経験値だのは願望の言い換えに過ぎない。考えられるとすれば」  俺とガーランドは身を乗り出して次の言葉を待った。 「これはあくまで俺の仮説であり純粋な論理的帰結に過ぎないが」と長い前置きをしてからムライが語り始めた。 「【アヴァロン】という世界を概念として包摂し得る、つまりその外側に立ってこれを客体化し得る世界ということになる」 「そりゃ一体何の話だ!」  ガーランドが遂に爆発したが、ムライの言う仮説なるものは昨夜この俺自身が思いついた可能性のことでもあるらしかった。 「それは……つまり」 「【現実】のことだ」  俺はムライの目を覗き込み、そしてその目が真剣そのものであることに怯えた。 「いい加減にしやがれ」  期待を大幅に裏切られたガーランドが遂にキレて喚いた。 「なんでわざわざ苦労して現実に帰らにゃならねえんだ。だいたい現に特Aに接続してロストしたらしい連中が施設に転がってるのは、あれはいったい何なんだ。デク人形だとでも言いてえのか」  俺は先日訪れた施設の未帰還者たちを思い出していた。  そこにいながら決して存在しない人間たち。まるで入力されるのを待っているような、抜け殻のような人間たち……。  俺は妄想を振り払うようにしてムライに言った。 「二つの理由と言ったな。もうひとつはいったい何なんだ」 「俺も行ってみたいからだ」  ムライがあっさり言い放った。 「行ってみたいって、特Aにか」 「現に特Aに接続したと語り、またそう語られている女が目の前にいる以上、接続し、そして生還する可能性は極めて高い。違うか」  確かにその通りだったが、自ら語った恐るべき結論を自分自身で試みようとするムライという男の神経を俺は疑った。  とうてい正気の沙汰とは思えない。 「もうひとつ聞かせてくれ」と俺。 「何だ」とムライ。 「今までの話が事実だと仮定して……」 「その可能性は極めて高いと言った筈だが」 「事実だと仮定して」と俺は重ねて前提してから言った。 「あの女は何者だ。いや、素性はどうでもいい。あの女の目的は一体何なんだ」 「考えられる可能性は幾つかあるが……」  ムライはちらと女を見てから続けた。 「おそらくテストプレイヤーだと思う」 「テストプレイヤー?」 「より正確に言うなら、テストプレイヤーのスカウトだ」  ムライは一旦間を置き、自分の考えを整理するようにうつむいてから続けた。 「クリアできそうで出来ないゲームと一見クリア不可能に見えて可能なゲーム……どちらが良いゲームかは言うまでもないだろう。その微妙な均衡点を探り出し、絶えずバージョンアップを繰り返し、そして維持する。おそらく【アヴァロン】はそういった作業の繰り返しによって、俺たちの感知できない修正を加えつつ運営されているに違いない。そのためには優秀なテストプレイヤーが不可欠だが、その供給源をプレイヤーたちから選抜するというのはありそうな話だ。あの女が一度この世界の外側に接続し、再び帰ってきたとするなら明確な目的がなければならない。特Aが俺の考えるような世界だとするなら、そこは【アヴァロン】の真のシステム領域とも言うべき場所であり、あの女の行動がそのシステムを担う者たちの意思を背景にしている可能性もこれまた高いことになる。あの女が獲得経験値に無関心な理由もそれで説明がつく」 「【アヴァロン】の真のシステムを担う者たち……」 「いくら情報に疎くても聞いたことくらいあるだろう。【九人姉妹《ナインシスターズ》】のことだ」 【九人姉妹】とはアーサー王の物語に登場する伝説の島アヴァロンを支配する女神たちのことで、傷ついたアーサーを黒い舟で水の果てアヴァロンに運んだのも彼女たちであり、知られている名前としては妖姫モルガンを筆頭に、ノルスガリスの女王、荒地の女王、アーサーの守護者である湖の姫などが挙げられ、「モルガン・ル・フェの九人姉妹」とも呼ばれる。その存在は動物に姿を変え不治の病を治し、未来を予見する能力を持つと伝えられた「ケルトの九人の女祭司」と並行関係にあるとも言われていた。 【アヴァロン】の世界ではその初期システムの開発者たちとも原設計者であるとも言われているが、その真偽は誰も知らない——【アヴァロン】に関わる謎の中でも最大の謎のひとつだった。 「他界への侵攻」を経て魔女たちの仲間として再びこの地を踏んだ女——俺は高射機関砲架の傍らに佇んで黄昏の空を眺めている黒ずくめの女を見ながら、そんな言葉を思い浮かべた。自分を裏切った男を追って世界の果て、いやその世界の外にまで赴いて殺してしまった女がついに魔女になったという物語は、それこそありそうな話だと俺には思えた。 「もう一人、魔女がやってきたぜ」  ガーランドの上機嫌な声に振り向いた俺は、回廊を歩いてくる赤毛の女魔導師の姿を認めて仰天した。  真っ赤に染めた髪を後ろに束ねて垂らし、その肩にRPG、腰にFNハイパワー、背負った背嚢に予備弾頭三本という重武装でやって来るのは俺の全財産を一夜にして蕩尽させたあの女に間違いなかった。  あの女ブチ殺してくれる、と叫んで突撃しかけた俺を暴力はいかんな暴力はと呟いてガーランドが羽交い絞めにした。 「貴重な火力支援者は大事にしなくちゃいけねえ」  ジタバタともがく俺の鼻先にRPGの弾頭を突きつけた女は、野良犬を見るような目つきで俺を見据えてから言った。 「あたしが召請に応じたのはあんたみたいなカスのためじゃないんだから、誤解のないように」 「それじゃ何のために来たんだ」 「仁の奴に言ってやりたいからよ。ロストしたまま二度と目覚めるなってね」  この姐ちゃんにもれっきとした動機があるってことよ、とガーランドは先程までの鬱陶しい展開を振り払うように陽気に叫んだ。  時間よ、とよく通る声が聞こえた。  砲座の射手席から黒い魔女が腰を上げ、ケープのように纏った迷彩ネットが吹き上げる風に大きく舞った。 「こいつぁいけねえ」とガーランドが呟き、真顔で俺の顔を見て言った。 「あの女、ありゃ灰色の貴婦人でも魔女でもねえ……黒衣の未亡人てやつだぜ」   3  アーサー王がその甥であり、一説には異父姉との間に生まれた息子でもあると言われるモルドレッドと戦った最後の戦場には、実は諸説がある。  アーサー王物語の定本とも言うべき「アーサー王の死」を著したトーマス・マロリーによれば、それはソールズベリーの平原だということになっているが、ウェールズのカムランやアイルランドだとする説もあり、伝統的にはコーンウォールのカメル川に架かる「虐殺橋」であるとされていた。そもそもその歴史的存在自体が疑問視されているアーサーの活動に関して確実なことなど何もなく、全ては後に彼を語りその物語を紡いだ作者たちの創作なのだと言ってしまえばそれまでなのだが、その最後の戦いの様相も実に様々で、これに生き残った人物についてもマロリーの三人説から先に触れたウェールズの伝説に見られる七人説まで、その戦いの時期も含めてまさに諸説紛々という形容が相応しい。  要するにアーサーの最後の戦いに照応する事例を【アヴァロン】に求めることもまた難しいということになる。  がしかし、いま俺たちが接続しているクラスAの戦場《フィールド》——廃墟《ルインス》R66が何故【虐殺の橋】と呼ばれるようになったのかは、その地形を眺めれば一目瞭然だった。  俺たちの立つ橋の此岸には緩やかに傾斜した山肌に東欧の小都市を模した廃墟が僅かに広がるだけで、戦術的に評価すべき要衝と言えば小さな教会の尖塔と最終撤退地点とも言うべきセーブポイント以外に何もない。対岸にも同様の廃墟が望めたが、それが接続可能な地形なのかそれとも二次元の模像に過ぎないのかは何しろ渡ったことのあるプレイヤーの証言が皆無なので判別のしようがないが、いずれにせよ巧みに偽装された防御陣地が複数存在することは間違いなかった。  問題は両岸を繋ぐ唯一の回廊である鉄道橋だった。  前世紀の典型的な鉄道橋を模したそれは、全長約二〇〇メートル。鋲溶接の鉄骨で組んだ枠組の中央部に枕木を並べて単線の軌道を敷き、その両側は歩行者が通行可能な程度の敷板が並べられている。全幅はおそらく一五メートルに満たないだろう。掩体物と言えば鉄道の軌道と歩行可能な欄干部の間におよそ二〇メートルの間隔で林立する幅一メートルに満たない鉄骨だけだった。この限定された空間を敵の待ち構える終点に向かって走破することの困難さは、この時点ですでに想像に難くない。  純戦術的な観点からすると、およそ河川に設けられた橋梁ほど攻めるに難くこれを守るに易い地形は他に存在しない。攻める側からすればその行動範囲が著しく制限されるだけでなく、散開も迂回も不可能な縦深の空間は必然的に敵の火力の最大限の集中を招く。一方防御する側に転じるならば、この不利はそのまま絶対的な優位に繋がる。その装備や橋梁の構造にもよるが、突破を試みる側が携行火器のみを装備する歩兵小隊程度なら極端な話、その甚大な地形効果故に互いの死角を覆う機関銃座が二つあれば充分に防御可能となる。もはや攻勢者三倍則どころの騒ぎではない。もちろん火砲や装甲車両、航空機の著しく発達した前世紀の第二次大戦以降の時代であればこんな極端な戦闘は派生しない。渡河する以前の段階で、まず空爆や大口径火砲による対岸への入念な準備射撃を行ない、これに生き残った防御陣地を想定して装甲車輌を前面にたてて侵攻することになる。舟艇の運用が可能であれば、侵攻と同時に少数部隊の迂回上陸を敢行して対岸の敵を包囲殲滅することも考慮されるだろう。がしかし、それでもなお攻撃する側にそれだけの物量の動員を強いるという意味において、依然として橋梁の攻略戦は——橋梁の破壊を最終的な獲得目標としない限りにおいて——防御する側に絶対的な優位を招来する。航空輸送力の発達によって橋梁の持つ兵站上の戦略的意義が相対的に低下したにもかかわらず、車輌による輸送力の確保をめぐって特に鉄道や道路網の発達した欧州における戦争で橋梁の奪取を賭けた戦闘が激烈を極めたのはこの理由による。  この地形効果を【アヴァロン】における戦闘条件とR66という戦場に適用するとどうなるか。  航空機はもちろん、装甲車輌も大口径火砲も攻勢側には存在しない。装備可能なのは射程で言えば狙撃ライフル、制圧効果で言えば戦士の分隊支援火器か魔導師のグレネードランチャーやRPGが上限であり、しかも河川そのものは渡河不能と設定されている。一方で守備側は事前に準備された防御陣地に重機関銃の銃座を構え、場合によっては装甲車輌や攻撃ヘリまで増援可能なのだから兵士としての圧倒的な錬度の差を考慮しても、これはそもそも勝負になどなる筈がなかった。ムライの言い草ではないが携行火器のみでこの橋を渡ることは不可能であり、極論するなら全長二〇〇メートルの鉄道橋という設定自体が過剰殺傷を前提にしているとしか思えない。  事実、難攻不落の戦場をクリアして名を挙げようと目論んだパーティーは悉く壊滅を演じて敗退し、【虐殺の橋】は攻略不能の悪名を馳せていた。 【向こう岸にある門衛の詰所、対になってる建物があるだろう】 「ああ」と俺は双眼鏡の焦点を絞りながら、インカムに響くムライの声に答えた。 【あの二階の窓には間違いなく銃座がある筈だ。確認しろ】  俺の目は煉瓦造りの建物の窓から不気味に突き出された機関銃の銃身を捉えた。そのまま視界を下方に振ると、川面に浮かんだ曳舟が見える。  橋の袂近くの瓦礫の陰で敵情を窺っていた俺は双眼鏡を手にしたまま背中を丸めて飛び出し、そのまま走ってムライたちの集合している民家に戻った。民家と言っても煉瓦の壁だけを残す廃屋に過ぎないが、俺を除く全員が壁を背にして俺を待ち構えていた。 「確認できただけで対岸の銃座は三つ。門衛の詰所にはPK、いや三脚に載ってたからPKBかPKSだと思うが一丁ずつ睨みを利かせてる。それと川に浮かんでる曳舟が気になる」 「伏兵がいると考えるのが妥当だな」  俺の報告を受けてムライが簡潔に答えた。 「装甲車輌は?」  RPGの射手としてはそれが最も気になるらしく、赤毛の魔導師が俺の目を見ずに尋ねた。 「今のところ確認できないが、いつ湧いて出るか判らん」と俺が答えると、 「最低でも二発は温存すべきだな」とムライが言った。  戦車や装甲車の分厚い装甲を穿つのが本来の使用法だったが、掩体で防御された銃座を潰すにもRPGは極めて有効な兵器だった。  前世紀に頻発した紛争においてもそういった活用法は広く知られており、対戦車兵器と言うより歩兵が携行し得る有力な支援火器としての信頼度は抜群だ。だが最も頼りになる魔導師のRPGは予備を入れて四発しかない。  その四発をどう生かすかが攻略の要になることは間違いなかった。 「で、どう攻めるんだ」  早くも焦れ始めたガーランドが言った。  ムライが壁に凭れて俺たちの話を聞いていた女を見る。  主宰者が常に指揮を執るとは限らないが、一応お伺いをたてたというところだった。 「上から掩護する。指揮はホウワが執れ」  そう言うなり背を向けて廃屋を出た。  おそらく教会の尖塔の上から対岸を狙うつもりなのだろう。女の腕とSVDの性能を考えれば対岸までの距離は間違いなく必中距離だったし、狙撃手としての能力を最大限に生かすためにも単独で自由に行動するのが最良の選択であることは間違いない。 「RPGは詰所の銃座を潰す。M1はその掩護に回れ」  そう言ってムライが腰を上げた。  互いを装備火器で呼び合うのは、俺たちのような混成パーティーがよく行なう方法だった。次にいつ組むか判らない相手の名前を覚えるのは煩わしいし、装備の名を呼ぶことで火器の展開状況が即座に判る利点もあった。 「先陣はFALが務めろ」 「ツイてるじゃねえか、特Aへ一番乗りできるぜ」  赤毛の護衛を仰せつかったガーランドが上機嫌で俺に軽口を叩いた。特Aに一番乗りか死亡《デッド》判定の一番目かは俺の腕次第というところだ。 「ホウワは?」 「員数が足りん。俺自身が予備だ」  状況次第で俺につづくか撤退の掩護に回るかを判断することになるのだろうが、いずれの場合も唯一の全自動火器であるTH64は頼りになる。指揮を執る者が予備に回るのも妥当な選択だ。  全体にムライらしい手堅い作戦だった。  真っ当な作戦であの橋を渡れるとはとうてい思えなかったが、この編成と装備でそれ以上の作戦を考えることもまた無理に違いない。  俺は廃屋を出ると、こちら側にある詰所と対岸の詰所の重なる線を一気に走り、詰所の背後に取りついてそのまま待機に入った。RPGの一撃が敵に動揺を与えた隙に、まずは行けるところまで走って鉄骨の陰に入るつもりだった。  この戦場には俺たち以外のプレイヤーはいない。何故なら俺たち五人はそれぞれが単独で予備接続《エントリー》を登録し、全く別のフィールドである高射砲塔を経由してここに接続したからだ。【アヴァロン】のフィールドへの接続はそれが単独かパーティーかを問わず、予備接続ごとに一回線を使用する。ひとつのフィールドに多くの回線が集中して起こるデータ処理の遅滞を避けるための手段だったが、あの女はそれを逆手にとってこの戦場の独占を図ったのだ。【虐殺の橋】はフィールドとしては狭い部類に属するから、五回線の接続はすでに許容量一杯の筈だ。たとえそこにいるプレイヤーが五人だろうと、その時点で予備接続は打ち切られているから他のパーティーが接続してくる惧れはない。一見するとこれは不利に思えるかも知れないが、あらゆるパーティーは基本的に他のパーティーを潜在的な敵と看做すし、この狭い戦域で混戦となれば指揮もヘチマもなくなる。狙われないまでも他のパーティーの誤射を喰らったり巻き添えを喰う可能性は無視できなかった。  戦闘に入る以前の段階から、常に戦いは始まっている——そういうことだ。  もっとも事前に為し得る手段の、それが全てであったことも確かだった。 【いつでもいいぞ】  インカムにRPGが射撃地点に着いたことを知らせるガーランドの声が飛び込んできた。 「FALよし」と俺が応答し、 【SVD《ドラグノフ》いいか】と狙撃手の応答を求めるムライの声が聞こえた。  女の応答はなかった。  勝手にやれ、ということなのだろう。  同様の判断を下したらしいムライが簡潔に命じた。 【始めろ】  途端に大気を叩きつける凄まじい発射音が川面に響き、向こう岸向かって左の詰所の二階部分が爆煙に包まれた。  発射音と同時に俺は走り出していた。  一本目の鉄骨を過ぎ、二本目を過ぎても敵の応射はなかった。  俺は躊躇わずに三本目の鉄骨に取りつき、途端に今まで走っていた線路上の枕木がささらのように捲れ上って木っ端を散らした。俺が取りついた鉄骨を7・62ラシアンが連打して割れ鐘のような音をたてる。別の銃座からの応射が加わり、跳弾が凄まじい火花を上げた。  応射が途切れた途端に聞き慣れたM1の発砲音とムライのTH64の軽快な連射音が響いた。俺を狙った発砲の発射炎で、敵の銃座の位置を掴んだガーランドたちの掩護射撃だった。俺の左後方の瓦礫にRPGの後方噴射が巻き上げた土煙が漂っているのが見え、その周辺に着弾が集中しているのが見えたが、ガーランドたちはすでに次の射撃地点へ移動している筈だった。RPGは発射する度に凄まじい噴煙を上げて位置を暴露するから、撃つ度に移動を繰り返すのが鉄則だった。  俺は鉄骨を離れて再び走り出した。  この先の展開に何か希望があるわけではないが、取り敢えずは順調な滑り出しだった ——とそう思った次の瞬間に右側の歩道の床板が木っ端を巻き上げ、俺は身を投げ出すようにして橋上に伏せた。吹き飛んだ床板の隙間から覗くと、RPDを撃ちまくる敵の正規歩兵を乗せた曳舟が接近してくるのが見えた。俺はそのまま伏射の姿勢に入ってRPD野郎にFALの狙いを定めたが、その背後にひょっこり現われたRPG男に素早く照準を移動して初弾を発射した。RPG男が弾けるのを目の端に収めながらそのまま連射をつづける。次弾からは弾着を見て修正を加えながらの連射だったが、三発目でRPD野郎が弾け飛び、さらに十数発を屋根に送り込むと驚いたことに曳舟自体がポリゴンの破片を撒き散らして川面から消滅してしまった。 【まだ生きてるかFAL】  インカムにガーランドの胴間声が響き、茫然としていた俺はようやく我に返った。 「舟が消えちまった」 【何だぁ】と間の抜けたガーランドの応答に続いてムライの声が割り込んできた。 【どうしたFAL】 「消えちまったんだ……二人弾き飛ばして十発以上叩き込んだら舟が消えちまった」  てめえ夢でも見てんのか、と叫ぶガーランドの声が急激に遠退き、途端に俺の周囲のあらゆるものが色褪せ始めた。 【気をつけ……フラグが……聞こえて……】  インカムから断続的に漏れて来るムライの声を聞きながら、俺は体を起こして橋の前方を見つめていた。  向こう岸近くの橋上の空間が歪み始め、鉄骨のトラスが飴のように捻れる。その周囲に湧出し始めた微細な煌めきがやがて周囲の景観を反射させる細長いポリゴンに変化して渦を巻き、その中心部に巨大な獣を産み出しつつあった。  終端標的の湧出だった。  その周囲の敵が凍結したように動かないのは巨大な処理負荷の影響だろうが、一五〇メートル近く離れた俺が動けなかったのは別の理由による。形を成しつつある凶悪なシルエットから、その獣の正体の想像がついたからだ。およそこの場にもっとも出現して欲しくない鋼鉄の巨獣——対空自走砲《シルカ》ZSU23×4だった。 【|白皙の鹿《ホワイトスタッグ》】という命名《ネーミング》の由来はその四連装23ミリ機関砲を載せた巨大な砲塔が雄鹿の頭を連想させるからなのかもしれなかったが、上空からの攻撃に耐えるその分厚い装甲は鈍い灰色に塗装されている。その命名もまた、アーサー王の故事との暗合を好んだ初期のプレイヤーたちの流儀を映しているのだろう。白い鹿はアーサー王の物語にしばしば姿を現わすが、その源流はケルトの白鹿崇拝に由来すると言われていた。  だがいま俺の目の前に出現した怪物には、伝説に登場する獣の名前が連想させる優美さのカケラも存在しなかった。  対空自走砲ZSU23×4の「ZSU」はロシア語の「対空自走砲」の頭文字をとったものだが、前世紀にこれと対峙した軍事同盟はこれを「シルカ」と呼んでいた。  自走砲の車体として多用されていた水陸両用戦車PT—76の車体に、航空機搭載用の砲身長81口径23ミリ機関砲を四基収めた巨大な砲塔を載せ、四門斉射時に最大で毎分四〇〇〇発の発射速度を誇っていた。しかも給弾を左右両側から行なうことで砲身間隔を狭めて火力集中を密にし、かつ四門の発射を同調させる独特のシステムは、斉射時に個別の砲四門を合わせたものより遥かに強力な瞬間的火力効果を可能にしていた。  機関砲自体も冷却は水冷式、遊底作動はガス圧利用方式で信頼性に富み、弾薬は焼夷 榴 弾または焼夷徹甲弾の二種。有効射程は対空目標一八〇〇、対地上目標二〇〇〇程度だがジャイロ・スタビライズされていて行進間射撃も可能、野戦での機動に充分対応していた。  実戦においても前世紀後半に頻発した中東地区の戦闘で勇名を馳せ、同時期の米国製対空自走砲VADS(バルカン・エア・ディフェンス・システム)との役者の違いを見せつけたと言われている。 【アヴァロン】のような対歩兵戦闘のみの戦場で対空自走砲の出現は場違いに思えるかも知れないが、対空自走砲なるものの瞬間的な火力集中は地上目標に対して文字通りの猛威を奮う。ブローニングを四連装した第二次大戦中の米国製対空車輌が「|肉切り包丁《ミートチョッパー》」と呼ばれたのも、その威力がしばしば対歩兵戦闘に用いられた事実を示している。  この怪物の前に立ち塞がる者がいるとすれば、それは重装甲の主力戦車か身の程知らずの田舎騎士《ドン・キホーテ》だけだった。  ディーゼルエンジンの始動音とともに盛大な排気煙が噴き上がり、鋼鉄製の大鹿が前進を開始した。 「……RPG!」  その圧倒的な姿に俺は思わず悲鳴を上げた。 「RPG、このバケモノをなんとかしろ!」  そう叫んだ瞬間、俺の傍らを嵐が通過した。  連射音というより持続する爆発音に近い轟音が響き、俺の背後の枕木が燃え上がりながら宙を舞った。  焼夷榴弾の点射だった。点射と言っても各門五〇発で計二〇〇発の斉射であり、まさしく白鹿の皮を被った火龍《サラマンダ》の咆哮《ブレス》だった。 「RPGッ!」 【ぎゃあぎゃあ喚くな腰抜け!】  今まで沈黙していたインカムから赤毛の声が飛び出した。 【バケモノの**タマ狙ってるわよ。照準の邪魔だから黙ってなこのカス!】  俺は恐怖よりむしろ赤毛の下品な言葉遣いに驚いて沈黙した。  昔から気の強いことでは無類の女だったが、こんな下品な台詞を撒き散らす女ではなかった。歳月だか今の男だか仁の奴に捨てられたショックだか知らないが、何かがアンクのピアスの似合う少女を完膚なきまでに粉砕していた。  戦場にあるまじき雑念を吹き飛ばすかのように、再び怪物《シルカ》が火を吐き、橋を揺るがす轟音とともに俺の周囲が瞬間的に燃え上がった。  衝撃から世界が回復すると、俺の隠れていた鉄骨を残して周囲の床が灼熱した牙に削がれたように抉れ、焼け焦げて燻っていた。傍らの手摺が飴細工のように捩れ上がっている。  まだ生きていることが奇跡としか思えなかった。  と、大気を叩きつける発射音と同時に怪物の前方に爆煙が出現し、枕木が宙を舞った。  鉄骨の陰から覗くと、漂う煙を割るようにして怪物が委細構わず前進を続けていた。 「ドジ、間抜け、下手糞ッ! いったいどこ狙って撃ってやがるこの糞アマ!」  俺もまた失望のあまり下品極まりない台詞をバラ撒いた。 【うるせえッ!】と今度はガーランドの怒声がインカムに響いた。 【ムライの指示通り狙ったんだ。そんなに怖けりゃ手前の**タマ握り締めて**でも絞りだしてろ**野郎!】  下品さではこの場の誰にも負けないガーランドがまくし立てた途端、怪物が砲塔を旋回させながら猛烈な掃射を開始してRPGの狼煙の上がっている周辺に凄まじい土煙とともに火球が連続的に湧き上がった。 「……ガーランド!」  応答のないのに焦った俺はムライを罵倒した。 「ムライ、手前なに考えてやがる!」  応答の替わりに軽快な連射音が響き、それにつづいてインカムからムライの場違いに淡々とした声が聞こえた。 【落ち着いて前方を見ろ。随伴歩兵が迫ってる】  反射的にFALを肩付けした俺が振り向くと、怪物に気をとられて気がつかなかった正規歩兵がその巨体の背後からAKを構えて接近していた。  数発を連射し、二人を弾き飛ばしたところで遊底が開いた。  素早く鉄骨に隠れてAKの応射をかわし、腰のパウチから予備弾倉を取り出して装填する。後退したコッキングレバーを左手で叩くと遊底が前進して閉鎖が完了した。  強力な30口径弾を撃ち出すライフルは遊底が重く、リコイルスプリングが強力なので閉鎖不良の心配をする必要がない。223のような小口径弾を使用する突撃銃に、オマケのようについているボルトフォワード・アッセンブリの類がついていないのはその為だ。  突然異様な音が橋上に響いて床が揺れた。  鉄骨からFALを突き出して前方を窺うと、怪物の左の覆帯が先程のRPGの二弾目が穿った軌道上の穴を押し広げ、メキメキと枕木をへし折っている光景が目に入った。怪物の自重は十四トン程度で重装甲の戦車に比べれば遥かに軽いとはいえ、何せ鉄骨に枕木を並べただけの床だから一旦割れ始めて負荷が増大すればとてものことではないがその重さを支えきれない。覆帯の長さを利して一度は渡り切るかに見えたが、最後部の転輪が割れ目にかかったところで尻餅をつくように車体後部が沈み込んだ。  その瞬間を狙いすましたかのように、RPGの第三弾が左覆帯を襲った。  千切れ飛んだ連結ピンが床を叩き、回転し続ける後部機動輪が無限のループを断ち切られた覆帯を勢いよく前方に吐き出した。怪物がその腸をぶちまけるように覆帯が雪崩をうって床に落下する。  断末魔のように四門の機関砲が火を吐いたが、後方に傾いだ砲塔はその火線を空しく上空へ撃ち上げた。 【聞こえるかFAL】  ムライが応答を求めていた。 【落ち着いて周囲の動きををよく見ろ】  なお断続的な咆哮を上げる怪物の動きに奇妙な遅滞が見られた。驚異的な発射速度ゆえにほとんど静止して見える筈の巨大なマズルフラッシュが明滅し、怪物の咆哮に微妙な不協和音が混じっている。その轟音が断続的に遠去かり、やがて短いリズムを刻み始めていた。 「……ラグってやがる!」  それはごく稀に戦場に出現する現象で、回線が一時的に異常に混雑して輻輳を起こすことが原因だと言われているが、真の原因が何かは判っていない。がしかし、原因はともかく映像処理に異様な負荷が加わることで生起するデータ処理能力の急速な減衰現象であることは間違いなかった。  もしかすると自由水面の広大なこのフィールド自体に処理能力の余裕が乏しかったのかもしれないし、この狭い空間に出現した巨大な三次元オブジェクトである怪物とその異様に早い発射速度がついに限界を越える負荷を招いたのかもしれない。  俺は咄嗟にFALの銃撃で消滅した曳船を思い出した。 【今のうちに走れ。バックアップのシステムが動き出すまでが勝負だ】  ムライの通信が終わる前に俺は走り出していた。  向かって右側に位置する詰所の銃座の死角を衝いて林立する鉄骨を縫うように走りつづける。背後からガーランドのM1が吠え始めた。左前方のどこかで銃火が煌めき、足元を弾着が掠めたが俺は止まらなかった。  橋の中央を越えたあたりで擱座した怪物を擦り抜けると、その怪物が呪縛を解かれて再び動き出す気配がしたが俺はそれでも振り返らなかった。振り返っている余裕などない。五キロ近いFALと予備弾倉にPPK、その他合わせて一〇キロ以上の装備をつけての一〇〇メートルを越える全力疾走は常人であればたちまち失速を招く。だが脚力のパラメータにたっぷりとポイントをブチ込んだ俺の走力は、今は消滅したオリンピックにフル装備で出場しても余裕でメダルを取れる域に達していた。  突然頭上を衝撃波が走り、右前方の詰所の銃座が吹き飛ぶ。  RPGの最後の一発の直撃だった。  思わず振り返った俺の目に、突入を開始したガーランドたちの姿が映った。すでに進出して点射を繰り返すムライの傍らをガーランドが擦り抜け、RPGを捨ててハイパワーを振りかざした赤毛の魔女がそれに続く。  立ち止まってFALを頭上に掲げて見せようか、などという馬鹿な思いつきをインカムに飛び込んできたガーランドの怒声が吹き飛ばした。 【止まるんじゃねえ、怪物が狙ってるぞ!】  視線を転じると怪物の砲塔が俺を追ってじりじりと旋回していた。  尻餅をついて天を仰いだ砲塔が一八〇度回転すれば、機関砲に仰角をかけることで水平射撃の態勢に入ることになる。そうなれば次に天を仰ぐのはこちらの番だった。  再びダッシュを開始した俺のインカムに再びガーランドの罵声が響いた。 【装備を捨てろ馬鹿野郎、FALと心中するつもりか!】  一瞬躊躇した後に俺はFALを捨て、ホルスターから抜いたPPKを握って加速を加えた。五キロの桎梏から解き放たれた俺は走りに走った。  怪物の首の回転との競争だった。  尻の帆に背後から不気味に聞こえる砲塔の旋回音を受け、背中に鳥肌を立てながら走る俺の目に崩れかけた詰所からばらばらと走り出てきた正規歩兵一個分隊がAKを構えるのが見えた。  その距離約五〇メートル。  PPKとAKでは勝負にならない。  FALを捨てろと喚いたガーランドに呪いの言葉を吐こうとした瞬間、馴染みの薄い連射音とともにAKのデク人形どもが次々に硬直して弾け飛んだ。  沈黙を守っていた灰色の貴婦人のドラグノフだ。半自動狙撃銃ならではの連射だったが、この距離で正確に頭を撃ち抜く腕はまさに神業だった。  背後の旋回音が止まった。 【跳べ!《ジャンプ》】  女の鋭い号令に反応した俺の体が宙を飛び、背後で怪物が咆哮を上げた瞬間——俺の周囲の全てが消滅した。   4  覚醒の不快感に慣れることだけはできない。  それが最悪のゲームからの帰還であれば、なおさらだ。  真っ先に俺を襲ったのは、重苦しい空調の唸りであり、そして床に染みついた消毒薬の刺すような匂いだった。  ゆっくりとヘッドギアから頭を抜き、足の指先まで感覚の戻るのを待って目を開けると、しかしそこはいつもの見慣れた接続用の端末ではなかった。  何かが違っていた。  覚醒直後の意識の混乱の中で、俺は自分がいま何処にいて、何処から戻ったのかを必死に思い出そうとして喘いだ。  ふいに激しい嘔吐感に襲われ、俺は体を折り曲げるとベッドの手摺を掴んで吐いた。胃の中が空だったらしく酸っぱい匂いの胃液が床を汚したが、俺は自分自身の胃袋に強烈な違和感を感じ、胃袋を吐き戻す勢いで吐きつづけた。俺の全身が目覚めた世界に違和感を表明し順応することを拒絶していた。  顔を上げると正面に設置されたディスプレイが微かな振動音とともに励起した。  浮かび上がってきたのは見慣れた老人の顔ではなく、冴えた眸で俺を見据える美貌の女だった。 「無事に帰還できて何よりだわ……カバル」  その言葉の意味を充分に頭の中で反芻した後に、俺は女に言った。 「帰還とはどういう意味だ」  俺はあらためて端末《ターミナル》の内部を眺め渡した。 「まさか……ここは特Aじゃなかったのか」  俺は意識が中断する直前に背後で轟いた怪物の咆哮を思い出した。間一髪で向こう岸に滑り込んだ筈だったが——。 「開発者たちは【クラス・現実《リアル》】と呼んでいたそうよ。この世界は常に膨大なデータと高い処理能力を要求する……ここはまだ様々な意味でテストフィールドに過ぎない」 「様々な意味で……?」  女は俺の質問に微笑を返しただけだった。 「あなたがこの戦場《フィールド》を終了《コンプリート》する条件はただひとつ。ここに残留する未帰還者を倒すことだけよ。ベッドを降りて壁に掛けた服を見て」  俺は言われるままに床に下りた。  足の裏を伝ってくる床の冷たさはいつもと同じだったが、体が異様に重かった。あの橋の上を疾走した時の爽快感との落差に戸惑いながら壁に掛けた服を探ると、服の下に見慣れぬホルスターが隠されていた。  銃把を握って扱いなれたPPKを抜き、スライドを引いて遊底を開く。マガジンの先端部に見える380ACPを確認し、スライドを離すと小気味よい音が室内に響いて初弾が装填される。俺はデコッキングしながらディスプレイに向き直った。 「あなたのあらゆる技能《スキル》のパラメータはここに接続した段階で初期値《デフォルト》に戻っている。携行できる武器は拳銃と一弾倉分の弾薬だけ。ただしフィールド内の|住人たち《ニュートラル》に危害を加えた場合は強制終了される。時間は無制限だけれど、終了する以外にこのフィールドとの接続を切る方法はない」 「終了の報酬はテストプレイヤーになることか」 「それが望みならばね」 「あんたもこのフィールドをコンプリートしたのか……アッシュ」  女は無言で俺を見つめた。  滲んだディスプレイの映像を通しても、その眸は恐ろしいほど冴えていた。 「……|他に質問は《エニクエスチョンズ》」  俺はガーランドたちのことを尋ねようと思ったが、なぜかあの陽気な男や気の強い赤毛の女の印象は夢の中で出会った人物のそれのようにその輪郭が曖昧になり細部が失われていた。いや……彼らを含む俺自身の現実の記憶が、呼び戻そうとすればするほど遠去かる夢のそれのように曖昧なものになりつつあった。  俺はふいに仁のことを思い出した。  仁もまたこのフィールドに接続して……そして俺はその仁を追いかけてここにやって来たのではなかったのか。  突然、俺は電流に触れたような鋭い衝撃を受けた。  俺はどうしても仁の顔を思い出すことができなかった。 「|他に質問は《エニクエスチョンズ》」  茫然と立ち尽くす俺に追い討ちをかけるように女が同じ言葉を繰り返していた。 「ここは……」 「|他に質問は《エニクエスチョンズ》」  再び女が繰り返した。 「ここは……」  ここは【現実】なのか——。  低く唸り声をあげていた空調の音が全てを圧するようにのしかかり、そして消えた。 「その答えは自分で見つけ出すことね……かつての私がそうしたように」  俺の脳裏に先程まで接続していた世界であの中年男の語っていた言葉が浮かんだ。  クラスAの完璧な現実感を包摂する世界、それを可能にする上位概念があるとすればそれは……だがそれでは、そのクラスAに接続していた俺の現実とは一体何だったのか。通い慣れた端末も配食所も俺の部屋も、いやガーランドや赤毛の女やその他の全てもここで夢見られた幻に過ぎなかったのだろうか。  いや、と俺は再び思い直した。  あれが【アヴァロン】の産み出した幻ならそこに接続されたこの世界がそれに連なっていないなどとどうして言えるだろうか。  それを確かめるためにも俺はその存在すら定かでない男に会い、この戦場を終了させなければならなかった。  俺はのろのろと服を身につけ、靴を履き、重いホルスターにベルトを通して腰に回した。  そのまま端末の出口へ向かい、扉に手をかける。 「|健闘を祈るわ《オボゼニア》、カバル」  魔女の声を背に受けて、俺は扉を押し開いた。 [#改ページ] 解説   今野敏  今、文庫版の『アヴァロン』を読み終わり、軽い興奮状態にある。快い。  もちろん、戦闘シーンだけで充分に楽しめる。ずっしりとした銃器の手触りや、オイルの臭い、そして発砲したときのしたたかな衝撃や、硝煙やパウダーの臭い、空気を振るわせる銃声などが、ありありと浮かび上がってくる。実際に銃声というのは、肌で感じるのだ。特に大口径の銃器の発砲音は空気の固まりとなってぶつかってくる感じだ。それが、押井守の文章から生々しく感じられる。  だが、この興奮はそれだけではない。知的な興奮を含んでいる。それが独特の快感をもたらす。読書の楽しみの大半は知的な喜びなのだと、私は信じている。  仮想空間である『アヴァロン』を介して、現実というものについて謎が提示される。すでに、物語ではそのこたえは示唆されている。だが、この『アヴァロン』という物語が提示するこたえは、一つではない。もしかしたら、押井守がイメージするこたえと、私がイメージするこたえは違っているのかもしれない。そう。この物語に結末はなく、その「こたえ」はイメージすることによってしか得られないのだ。単純に思えるが、実は決してそうではない命題。例えば、今この文章を読んでいるあなたは、現実社会にいると言い切れるだろうか。物音に、はっと目が覚めれば、まったく別の世界にいるかもしれない。少なくとも、夢を見ているときには、私はその夢の世界が現実だと信じているのだ。  そのイメージのために、押井守はあるマジックを使う。濃密なまでの現実世界のディテールを描くのだ。薄汚れた街の情景を描き、黄昏時の乾いた哀愁を描き、ひりひりとした地下鉄の危険な雰囲気を描き、薄汚れた一人暮らしの部屋の猥雑な日常を描く。そして、登場人物たちはひたすら食う。さらに、主人公が属している現実社会のシステムを観念的に述べることで、さらに現実というものの実態を深めていく。  一方、アヴァロンの世界にいるときには、主人公の論理的思考が展開される。銃撃戦のシーンでもひたすら、軍事的な理論が語られ、銃器に対する主人公の思想が語られる。自分が、理想的な人格として存在するために、思考を強いられる。ゲームだからだ。  その差異が、現実と仮想現実という描写の差となっている。だから、アヴァロンの世界は、圧倒的なリアリティーを持ちがなら、これは仮想現実などだということが強調されることになる。象徴的なのは、既視感だ。アヴァロンは既視感に満ちていると、主人公は感じる。これは、夢そのものではないか。夢は常に既視感に満ちている。  そこまでは、読者は、現実と仮想現実の区別をはっきりと認識できて、安心して読み進める。そして、最後にどんでん返しがあり、心理的な迷宮の中に追い込まれていくのだ。  巧みな構成だ。そして、その構想を保証する確かな筆力がある。  冗談ではない。プロの小説家としてそう思う。小説だけで食っているこちとらとしては、専業ではない人に、こんなものを書かれたのではたまったものではない。やはり、才能というのは恐ろしい。  才能というのは、偏在するものではないと言う人がいる。誰にでも才能はあるのだと。だが、誰にでもあるものは才能とは呼ばない。たしかに、誰にでも素地はあるだろう。だが、その素地は発掘されない限りは土塊の中に埋まった宝物に過ぎない。発掘され、磨かれて初めて才能なのだ。誰が発掘するかというと、自分自身でしかない。つまるところ、才能というのは、思い込みなのだと思う。自分になにができるのかという思い込み、あるいは、これがやりたいのだという思い込みだ。  映画監督、あるいはアニメ監督としての押井守の評価は、すでに定着している。今や、世界のオシイなのだ。今さら、私ごときが、とてもではないが監督・押井守を批評などできない。私は、この原稿で、あくまで小説家の押井守を論評しようとした。だが、結局それが無理だと思い至った。  押井守という表現の主体があり、それが表現手段を選んでいるに過ぎないのだ。それは時に実写映画であり、時にアニメ作品であり、そして時に小説であるというだけのことなのだ。表現の主体であるというのは大切なことなのだが、実は驚くことに、現代ではそれをちゃんと自覚している表現者は、意外なほど少ない。  押井世界の特徴は、まず観念と濃密なディテール、そして個の視線だと思う。映画でも小説でも、押井作品ではまず社会に対する観念が語られる。そして、こまごまとしたディテールを描く。ディテールの描写に関しては容赦はない。読者や映画の鑑賞者は、観念の深淵さとディテールの濃密さで圧倒される。だが、それだけではない。そうした社会のシステムや現実というものと、距離を置いた個が最後に大きな存在感を持って、読者や鑑賞者を引っぱっていくのだ。だから、押井作品は一級のエンターテインメントたり得ている。  こだわりに対する強情な姿勢。それは、射撃においても発揮される。押井守とは、スケジュールが合う限り、毎年グアムに出かけて軍事教練のような射撃を行う。彼は、どっかと弾薬を買い込み、ひたすら黙々と撃ち続ける。我々の雑談には一切加わらない。ナガモノをレンジに向け、淡々と弾を消費し続ける彼の頭の中には、こんな台詞がよぎっているのかもしれない。 「こんなザコのパーティーには付き合ってられない」  いや、これは、あくまで私の想像です。  押井守は付き合いにくい人らしい、などという印象を与えるといけないので、最後に一言。彼と過ごす時間は、嘘のように楽しい。酒を酌み交わしているとあっという間に時間が過ぎてしまう。わざわざ射撃のために出かけるグアムのホテルで、また、私の自宅で何度朝方まで飲んだことか。不思議と話題が尽きることがない。そう、押井守はまるで宝箱のような人なのだ。 [#改ページ] 執筆にあたり次の文献を参照、一部引用させて戴きました。ここに記して謝意を表します。 「アーサー王伝説の起源——スキタイからキャメロットへ」C・S・リトルトン&L・A・マーカー/辺見葉子・吉田瑞穂訳(青土社) 「アーサー王伝説」R・キャベンディッシュ/高市順一郎訳(晶文社) 「アーサー王伝説万華鏡」高宮利行(中央公論社) 「図説アーサー王物語」A・ホプキンス/山本史郎訳(原書房) 「図説アーサー王伝説事典」ローナン・コグラン/山本史郎訳(原書房) 「ケルト神話」プロインシァス・マッカーナ/松田幸雄訳(青土社) 「ケルトの探求」J・レイヤード/山中康裕監訳(人文書院) 「機関銃の社会史」ジョン・エリス/越智道雄訳(平凡社) 「最新軍用銃事典」床井雅美(並木書房) 「最新軍用ライフル図鑑」床井雅美(徳間書店) 「拳銃王」小峯隆生(グリーンアロー出版) 「別冊GUN/Part5」(国際出版) 「FIREPOWER銃火器PartI」(同朋社出版) 「世界の軍用ヘリコプター」日本兵器研究会(アリアドネ企画)